2008年07月11日

野馬追いの一つの旗の意味は? (山中郷(飯館村)の山とついた旗の謎)

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野馬追いの一つの旗の意味は?
(山中郷の山とついた旗の謎)

 
今年も野馬追いが近くなったけどキ-ワ-ドで「野馬追い 改革」などときている人がいたし野馬追い関係でインタ−ネットで検索している人が増えているのだろう。野馬追いの改革の前にまず野馬追いの歴史を知ることが肝心なのだ。野馬追いの歴史にもいろいろあるけど野馬追いは旗祭りといわれほど旗が実に多様である。しかし不思議なことにこの旗について研究して本に出している人がいない、これは地元だからいても不思議じゃないからだ。相馬史編纂関係でも由来が良くわからない、私自身も郷土史で書いてきても真野の草原についてはいろいろ調べたがその他は基本的な資料さえ読んでいなかった。今回スポットライトをあてたのは飯館村の山中郷のことである。山中郷からは今は野馬追いにはでていない?江戸時代には飯館村史資料に残っているから出ていたのだ。それで一つ注目したのが山という旗である。この旗に注目したのは山中郷となっているからこれは山中郷を代表するものとして作られた旗かもしれないと想像したからである。野馬追いの旗は分類とかしているものがないのも不思議である。野馬追いの旗は先祖伝来のものだから古い謂われがある。一家に古くから伝えられたものである。だからそのもとをたどってゆくと相馬氏一族関係だから移住してきた流山市からのものでありこの土地の人ではない古い家柄により伝えられた旗となる。また相馬氏に仕官した他藩の旗標もある、武田藩の三菱の旗や伊達藩の雀の旗も交じることになる。
 

相馬氏一族に連なる旗印
他藩の旗(武田、伊達)
相馬藩が成立して作られた旗印
同族の波及した旗印


旗は多様であり今は分類できない、今回問題にした山の旗印は山中郷が成立してからの旗印ではないか?
山中郷は伊達氏の境を接して争いの激しい場所だった。山中郷は冷害で飢饉のひどかった所でありそれを助けるために小高や原町や北郷(鹿島)や中村から救援の米やら塩やら味噌やら援助物資が送られた。江戸時代の藩政は他藩は他国であり援助を受けられない、敵だからである。その代わり藩内は一致結束して助け合う、一つの家族のようにもなっていたのだ。山中郷が相馬藩として成立したのが遅かったのは伊達氏との争いのために雌雄を決することが遅くなった。山中郷は相馬藩では最後に藩として組み入れた地域になる。だから山という旗は山中郷が成立してから旗印が山として作られたのかもしれない、たいだいは先祖伝来だから相馬氏が流山から移住してきた一族の旗印が多いが山という旗印は山中郷が成立してから作られた新しい旗かもしれない、旗にもいろいろな謂われや意味がある。相馬に移住する前からあった旗印と相馬に移住して作られた、地元で作られた旗があるかもしれない、それが新しく相馬藩に組み入れられたのが山の旗かもしれない、他に蕨模様や熊の旗印がありこれも山中郷ならではのものではないかとしてもそれは他でもありえたから不明である。ただ山というのは何か山中郷が新しく成立して作られる旗にふさわしいのである。
 
旗印は何かを象徴して作られる場合がある。何かを記念して作られる場合がある。山中郷が相馬藩に組み入れられたときこの旗が象徴的に作られたのではないか?この旗印を使用したのは給人であり深谷村の村目付の佐藤五兵衛という人であり18石の給人である。石高としては何番目かに高い方である。ただなぜこの人がこの旗印を使用したのか?もしこの人が流山以来の相馬氏一族の旗を使用していたのか、そこがこの旗の謎を解く鍵となる。他にこの山の旗印がなかったとしたら新しく山中郷の象徴として作られた旗印となるのだ。資料を読まなくても意外と自分の想像したことが的中していた。資料の裏付けをそえれば歴史的に史実だと証明できる。その作業を誰がやるのか、結構手間だから暇な人は探ってみればいい、いづれにしろ野馬追いが旗祭りなのになぜ詳しい旗の研究がないのか不思議である。ここが学問として未開拓の分野でありそれも野馬追いが旗祭りというのに研究書がないことが不思議である。野馬追いの改革というときまずこの旗の研究が第一になる。旗祭りだから新しく旗印を創造することも必要になるとかなるのである。

 
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●補足−山中郷のカタバミの旗


飯館に山中郷に限るとカタバミの花の旗印は三つともカタバミの花でありて赤とか青の一本線を引いただけだからこれは旗印をもらった人であったり同族であったりする。新郷土−高玉軍治とあるからカタバミに線がないのが元の旗であり古くそのあとに赤い線や青い線を引いたのが新郷土として旗印を変えたのである。こういうのはヨ−ロッパの城の旗でも良くあるからわかりやすいのである。旗印でも野馬追いに全部出るとは限らない、出なくなった旗印もありこのカタバミであれ山の旗も今は野馬追いに出ているかいなかいか確定できない、つまりこういうところから歴史をふりかえる必要がでてくる。もしこの旗がないとしたらその謂われを正して出す必要がでてくるのである。山中郷関係は今の野馬追いには出てないとする過去の歴史だけのものとなったのだうか?
 
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山中郷(飯館村)の山の旗印は「山中郷」を意味していなかった
(野馬追いの一つの旗の謎−続)

posted by 老鶯 at 22:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)
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