2015年11月08日

金が共同体を破壊した (原発事故で避難民が優遇された問題)


金が共同体を破壊した


(原発事故で避難民が優遇された問題)


浪江の請戸の人が相馬市の病院に入院して特等室に入り相馬市に家を建てるんだと言っていた。その人は漁業関係で金がある人なのだろう
浪江には帰らず相馬市でもどこでも金があるから家を建てて住む人が多いだろう
でも相馬市であれいわき市であれ回りから見ると反発がある。
地元なのに外から来た人が金があるということで家を建てるけど自分たちは建てられないそのために土地の値段もあがり地元の人は建てられない、いわき市の場合は二万とか流入してきたから軋轢が生まれた。


相馬市でも商売している人は盛んに言っていた。なぜ原発避難者は働かないのかとかあいつらは金をもっているから贅沢しているとかスーパーで高いものを買っているとか女性だから細かいところを見ているのである。
自分の所でもスポーツカーを仮設であるのを見たからそこは前に聞いていた、一カ月百万くらいの金が入っているらしい、家族が多いと小高でもそれくらいもらえるのである。
おそらくそうして遊んで暮らしているから回りの不満も大きくなる
なぜ小高とか避難区域となるとあらゆるることに金が出るのである。
介護関係でも鹿島区は30キロ圏外で普通にとられるが小高とか30キロ内は援助があった。避難区域になと家に帰る旅に支援があり金がでている。
これほどなぜ手厚い援助があるのか回りから見るともらっていない人からみると不満になる


なぜ同じ南相馬市民なのに福祉関係まで差別しているのだろうとなる
例え30キロで区切られたとしても市の方で配慮してもいいではないか?
それはもう金の問題でもない、その金はたいしたものではない、それより不公平だということである。
人間は不公平だというとき一番反応する、公平を求めるのが人間である。
不公平だというときいわき市などは一番感じているから現実に危険な状態にもなった。
だからわかったことは政治の一番の課題は配慮しなければならないのは公平なことなのである。
ただ金持ちがいてもいいしそれもこの辺のように不公平なものでないなら容認される
金持ちでもパソコンを発明したジョブスとか何かそういう社会に貢献した人には文句は言わないのである。
江戸時代だったら庄屋がそれなりに裕福であっても村人は容認する、なぜなら庄屋とかは役所の代わりにもなっていたからそうなる、格式も必要になるからである。
殿様にしてもそれがある程度の贅沢は許されるのはそういう社会だったからである。
それは共同体の中でみんな了解して容認されるものとしてあった。


結局現代はそうした共同体の了解とか容認とかがない金だけが突出して力をふるう、それがこの辺では避難民だけが多額な金をもらったから回りでは不満になった。
でも今の時代はどうなっているかというと昔の村落社会とは違う。
避難民からしたらいくら仮設に住んでいても何かその土地の人に世話になることがあるのか?
確かに土地を借りたことは確かである、でもその他一体何か世話になったことがあるのか仮設を建てたのは土地の人でもないしみんな外部の人が来て政府とか東電の援助で建てたし、今は家建てるにもほとんど外部の会社になっている。外部から来た人が家を組み立てるだけである。地元の大工は多少補助役になっているかもしれないがその労働者も会社から派遣された人たちなのである。
だから仮設に住んでいても何か世話になることがありましたかとなる


もしそうでなかったら食料でも住む所すらなかったらいろいろ世話になることがあったろう。それもないとすると何か世話になったという感覚もない、金を出せば食料でも何でも外から入ってくるのだからその食料はもともと外部から入ってきたものが多いのである。それは国内だけではない、グローバルな世界経済となったときそうなっていたのである。江戸時代のような小さな自給自足の村落社会とはあまりにも違っているのである。
世界的に金が万能となってしまった社会である。
最初「十万で家事の手伝いでも頼む」と知り合いの人が来たが今や仮設に住んでいる避難民の方が雇う方になっていたのである。
普通だったらそんな避難民などありえないである。
それは現代の社会構造が反映してそうなっていたのである。


昔だと共同体というとき何か金だけでないつながりがあり共同体だった。それが確かに放射線の影響があったとしても町や村自体がばらばらになり崩壊して消失するということは現代が共同体というのがもうその前に崩壊していたから原発事故などを契機に崩壊したのかともなる
一億円もらって他で生活した方がいいと若い人たちは考える、それは別に故郷に固執するものがもともとなかったからだとなる。老人の場合はそこで長く生活したから愛着があるが若い人はそうでもない、別にいい暮らしが便利な暮らしができればどこでもいいというのが現状だったのである。
それは今はみんなが土地に愛着する農民でもないからそうなる


ある意味で逆に土地が奪われたりして自家生産できないと金が大事だとなる。
農家の人は今は何でも買うから野菜でもそうだし前は投げていたけどそいうことはできないとか言っている。
かえってより金に頼ることが大きくなっている。土地を奪われるとそうなってしまう
土地というのはやはり米でも野菜でも何かそれ自体が産み出すものをもっている。
土地をもたなければユダヤ人のように金だけが頼りとなるということはある。
ただ金が有効になるのはその金でサービスを受けられる社会である。
避難区域となったところはもうそこでは一億円もらってもそこに豪邸を建てても店もない、何かサービスも受けられないとしたらその金の価値もないのである。
だから一億円もらったらみんなかえって外に出て新しい生活をしようとする
結局金がかえって復興させないように働いた皮肉がある
金がかえって共同体のつながりをたち破壊したということがあった。
この辺はそうした様々な問題があらゆることで起きた場所である。
様々な現代社会の矛盾が具体的に現れた場所なのである。


このことはあとあとまでしこりとなる。なぜなら南相馬市民でも鹿島区や相馬市でも補償金をもらえなっか人たちは不満であり避難民に対して協力しないとなる
それは何か具体的にしなくても心でそういう思いがあるとき必ず影響する。
必ずそれがいじめとか具体的なものとして現れてくるから怖いのである。
人の思いは念は怖いものなのである。そういう思いや念を回りの人が抱いているということをやはり避難民も注意しないと危険になる
俺たちは別に世話になっていない、金もらうのも当然だ、何が不満なのだとなるとやはり避難民は回りからの冷たい視線をあびることになる
それはかなり住みずらいものとなる。現実にそうなっている。
避難民にはそういう自覚がないことも問題なのである。


もしこんなふうではなく互いに協力する関係になっていたら「土地の人には世話になった、その土地の人もあんたたちもがんぱって復興してくれよ、陰ながらも応援するよ」とかなっていた。それが地元でなくなってしまったことが最大の問題だったのである。
それは南相馬市でも行政の方で何も手をうたなかったことも問題だった。
せめて福祉関係だけでも鹿島区だったら公平にして援助すれば良かったのである。
それは政府とか東電とかは関係ない、市政の問題だったのであり市長の配慮がたりないとか政治的解決されるべきものだったのである。





posted by 老鶯 at 09:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連
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