2006年11月07日

認知症の施設での虐待はなぜ(NHK−クロ−ズアップ現代)


認知症の介護は本当にむずかしい、ここでも集団的機械的介護では認知症には良くないということでユニットケア、個別ケアにしたが今度は人手がかかるとか介護する認知症の人と密室化して虐待が起こった。認知症の人が暴言とか暴力を受けてそれで虐待になった。家族的ケアをしようとしたがそれが虐待の原因になったというのもいかに認知症相手の介護がむずかしいかわかる。認知症はわがまま病なのかとも思う。自分の気に入らないことは受けつけない、言うことを聞かせようとすると暴力になるとしたらこういう人にとを対処していいかわからなくなるのは当然であり虐待したくもなる。言うことを聞かせる方法がないとなる。
認知症の介護で一対一でうまくいくのは家族でもない、家族のなかでも特に人間関係がいい人しかなれないのだ。それを施設のような他人の介護で要求するのはむずかしい。個別対応は相性とかさらにコミニケ−ションの負担がかかってきてかえってうまくいかなくなったというのもわかる。機械的にこなせる方が楽だとなる。

それで外部からボランティアとして年代が上の人を施設に入れて助けてもらうようにしたというのもいい方法である。60以上だと話しがあうということがあるからだ。個別的対応としてはその当人あての手紙であれ人も来なくなる、それが認知症の人にとっては淋しいとなる。しかし認知症になったら回りの人も嫌がるし普通の付き合いできないから付き合いは極限られたものになる。実際幼なじみで認知症になる前まで頻繁につきあっていたすぐ近くの人が全く顔も見たことがない、もちろん付き合うのが断られてそれが一時回復してもその後また付き合うことは全くなくなった。それから特養に勤めていた親戚の嫁がもそんなところに行くなと言われ姑との付き合いは絶えた。特養に勤めている人さえ認知症の人を嫌っているからそうなったのだ。

特養でも虐待は実際は日常的に起こっている。すぐ近くの施設でも起こっていたことが地元の雑誌で報告されていた。ほとんどの施設で大小の虐待は日常的に起こっている。ただ表に出ないだけなのだ。認知症の場合は特にそうであり虐待した人をいちがいに責められないのが認知症の介護なのだ。ただ自分がもし認知症になったりしたら他の人でも親戚の嫁のような人がいたらそんな所に入りたくない、なんか怖いとなる。そして怖いことはそうした認知症の人と接していると介護する人が異常化してゆくのではないか?
かえって愛がさめて非情化してゆく、また非情でないとやっていけないとかなるのでは?
意地の座った人しか残らないという施設職員からの発言もあるからいかに現場が過酷な所かわかる。

認知症ほどわけのわからない病気はない、馬鹿なのかと思うと馬鹿ではない、馬鹿でないと思っても馬鹿だとか介護する人自体わからなくなる。自分の場合はまだ軽いので本当のこの病気のむずかしさはまだわかっていない、一時期の狂乱のときはショックだったがそれは今はないので精神的には楽である。そして自分の家の場合、家での役割は前のように変わらない。確かに自分ではできないにしろ私が補佐してそうなっている。だからフライドがなくなるということもない、まだ家族の中で役割をもって存在感をもって生活できるから時々できないことでいらいらして怒るのだがあとは治まっているのだ。

認知症の人を家族で地域で見守ろうといってもその逆の対応が起きてくる。認知症の施設がたつだけで回りから反対されたり認知症の人を不気味に思い付き合いされなくなったり現実特養に勤めている人が偏見と差別の持ち主であり虐待が日常的に起こっているように認知症に対処することはいかにやっかいなものであるかわかる。これはかえって兄弟でも介護を押し付けあいがあったりめんどうなのでかかわらなくなることは普通にある問題なのだ。
そして施設をいちがいに批判はできない、他は何かしてくれるかといったらなにもしてくれないしかえって差別、偏見しかないとしたら逃げ場もないとなるからだ。
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