2008年07月06日

紫陽花(人間はあわれを通じて共感する)


珍しき虫部屋に入る夏の闇


虻一匹うなりつさりぬそのあとに紫陽花静か夕暮れにけり

紫陽花に薄紅色の薔薇の咲く我がさ庭べの夕べ静まる

眼を合わすのみにあわれは深まりぬ病に伏せて弱りゆく人に
 


 歌道はアハレの一言より外に余儀なし。(略) 和歌みな、アハレの一言に帰す。されば此道の極意をたづぬるに、又アハレの一言より外なし−本居宣長  


姉は健康だったし強い人だったからあわれと感じたことはない、認知症になったとき体は普通なのだからあわれと感じない、かえって憎らしいく思っていた。認知症はあわれだと同情されない、体が弱く病気になれば同情される、あわれだとなる。知的障害は同情しにくいのだ。認知症になっても自分の言い分を通すだけであり暴れたりしただけだからそこにあわれを全く感じなかった。認知症の人を介護している人はたいがいそうなっている。でも体が病気になったときはあわれだなとつくづく感じるようになった。他の人も体が悪いことには同情したのだ。今はまた熱を出したり衰弱して死んでゆくようにも見える。眼をあいて見つめあうだけである。でも話しなくても眼を合わせているだけであわれだなとつくづく感じてしまう。そしてこのあわれは余命も少ないと感じるから余計にそうなるのだ。前にももののあわれで書いたが強い人間にはあわれは感じないのである。あわれは弱いものに感じるのだ。弱いことは現実社会では拒否される、常に強いことが望まれる。強い人は威張れるのだ。個人的でもそうだし社会の中でも権力をもった強い人は一目置かれ威張ることができるのだ。これは宗教団体の長などでもそうである。これらは恐るべき強い人なのである。


ところがこうした権力者でもリア王のようになると一転して弱い人になりそのあまりの無惨な弱者への転落が狂気にもなってしまった。誰も権力者にあわれは感じない、でも一旦権力を喪失した時、裸の個人に帰った時あわれを感じるのだ。イラクのフセイン大統領も権力者だったが一旦アメリカに捕らえられたときあわれそのものだった。でもそのあわれななかで権力のないなかで主張したことが共感を呼んだのである。人間は権力をもっているとき本当の人間の姿はない、あわれを感じない、あわれを感じないということは人間的に共感しえないということである。まず権力を持った人とは人間的交流はできない、裸の個としての人間がそこにないからだ。だからもののあわれが歌道の神髄だとしたとき強い人は個人的にも集団的にも強い立場にある人は歌道には向いていない、それは己に頼るものでありあわれを感じる立場にないからだ。しかし人間は最後はみんなわわれなものとなる。老人になるとすべてひしひしとあわれを感じるものとなる。体が弱くなるし権力もなくなる。権力をもっていても役に立たない場合がある。施設や病院では権力をもっていても役に立たない場合がある。金持ちでも金をいくらやっても親切にしたくない横柄な人は嫌がられるのだ。そこで大事なのは看護婦とか介護師とかに好かれる人だというのもなるほどだと思った。権力を傘にきる人は嫌われるのである。前にも書いたけど高齢化社会はこのあわれを自ら経験する社会になるのだ。認知症になる人が30年後に400万人とかになる。ここでも私が経験したように強い人が見るも無惨な信じられないあわれな人間になることを見たり自らもなる社会なのである。
 
変わった虫が一匹入ってきた。夏の闇とは何か生き物がいる闇だというのは確かだろう。虻一匹が唸り去って行ったがそれは人間社会の騒音とは違う、心地よい唸りである。自然界の音は騒音とは違うのである。

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