「心の青雲」の著者が求めるものは何なのか
(鞍馬山に上り義経と一体化する)
山道も険しいが、山そのものが上から下を見ると絶壁といった感じで、道はつづら折りになっている。鞍馬山は岩盤で固く、杉の木が地下深くに根をはれないので、ぼこぼこと地上に根が出てくねっている。ために歩きにくいことおびただしい。
鞍馬山上りて思ふ義経のその心かな秋のふけゆく
義経の心を求め鞍馬山険しさ足に痛みて知りぬ
彼は何を求めているのか?アレキサンダーであり義経でありジンギスハーンであり戦争で勝った英雄である。
何か今はそういう戦争自体を否定している、戦争は悪いものだということが戦後の憲法までになった。だからこんなに戦争を肯定して英雄を求めているのに違和感を感じるだろうあなたは人を殺して英雄になりたいのかとなる
こういうことを堂々と書けるのもネットならではだろう。
戦争を経験した人は戦争を賛美していない、戦争だけはするなと言っているのである。
だからあんなに戦争を肯定して美化していることに誰でも抵抗を感じるのである。
まず現代の戦争だったらとても英雄化できない、機械の戦争になっているからである。
この次の戦争は明らかにロボット同士の戦争になる。そこにもはや人間はいないのであるでも実際はそのロボットという機械に殺される人が膨大になる。
現実にアメリカはすでにロボットで人を多数爆撃して殺しているのである。
それは鉄腕アトムのような架空のことではなく現実となっている。
ただアレキサンダーとか義経とかなるとまた別である。そもそも義経の伝説はなぜこれほどいたるところにあるのだろうかとなる。
それほど義経は日本全国に知られて伝説に残された、北海道までありそこから逃れて大陸にわたりジンギスハーンになったというのも伝説が残っているからそう見る人もでてくる心に青雲の著者は実地に義経という人物に迫りその人物と一体化しようとしているのである。その手法が単に小説を書くのとは違っている。
武道をしてきた体験からも語っている、だから一面迫真力がある
つまり義経を英雄視するのではなく自分自身もその英雄の跡をたどり英雄となろうとしいる、それが何か司馬遼太郎などと違っている。
司馬遼太郎は小説家であり歴史家でもない、物書きであり実践者ではない
心の青雲の著者は武道の実践家だということが違っている
だから鞍馬山を登るにしても義経に自分自身がなっているのである。
ある人物を語る時何かその人物になりきり語る
第一光厳天皇のことを知っている人すらまれだろう。そんな天皇をのことをなぜほめているのか?
その天皇が過ちを認めた、でも昭和天皇は戦争の過ちを認めないで責任もとらなかったと延々と批判している。
天皇自体が反省するとなるとし過ち認めることは異例のことだろう、ましてや戦争中現人神になっていた人が謝るとなるとそれはありえないことであった。
私は神ではない、人間だと言ったことに三島由紀夫は認めずに自死したのである。
結局情けないものを感じたのだろう。神からただの人間になったことが許せなかったのである。そのギャップも大きすぎたのである。
巨人が突然小人になる、巨獣が突然に踏みつぶされるような蛙のようになってしまう。
それはまるで魔法をかけられたようになる。そういうことは人間には常にある。
自分の家族でも認知症になった結果優秀な人が馬鹿になったということは信じられないことだった。
志高くもありて果てにけれ正しく清く秋の星光る
人間の最後はその志の高みに上ってゆき遂には死んでゆくことは確かである。
人間は死んでただの躯とか骨とか灰になるのではない、明らかに星になるのである。
彼はそれを義経とか英雄に求めている、自分は自然を求めてその志を一体化する。
その相違があってもやはり同じ志向があるので共感する
それは宗教とはまた違って共感するのである。
いつれにしろ歴史を知ろうとするときまずはその地理を知ることが基本にある。地理を知らないと何もしることができない、だから磐城の豊間で津波の被害のことを聞いたがあそこを自転車て通ったことがあるからすぐに話を合わせることができた。
何か淋しい場所であり海に接しているから被害も大きかったろうなと思った。
あそこに銀行がないからタンス預金していたということはやはり街から離れた淋し場所だったのである。
鞍馬山には上ったことがないけど何かイメージはできる。ただそれほどに深い険しい山の中だったということはそこに行かないと実感できないのである。
この実感することはやはりその地を踏まない限りわからないし歴史もまたわからないのである。
詩はまずイメージするにしてもそこに一度行っている人と行かない人の差は大きい
イメージするにもやはり一度そこに行くのと行かないのでは差が大きいのである。
京都もいろいろあり広いからかえっていろいろなものがありすぎてわからなかった。
でも義経の跡をたどるということで焦点をしぼれば何か得るものがあることは確かである大原に一回行ったがあそこも一度行ってみればそこで暮らした感じがイメージできるのである。
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