秋の日(石二つの俳句を英語にして鑑賞)
石二つここに動かず秋の暮
the two stones
the silenced ones
an autumn day close
、、、、、、、
in the TOCHIKUBO villiage
なぜ今言葉が死んだとか言われるのは現実にある事物と結びつかないためである。
言葉より前に自然の事物があった。それを言葉でもって結びつかせた。
だから言葉というのは事物なしではありえないのである。
万葉集などは明らかに奈良という場所でその自然と密着して生活していたから言葉はその環境と結びついていた。
枕詞が今になると理解できないがそれも奈良という場と結びついていた。
そして人間がその土地に山でも川でも名前をつけるとき人間化したのである。
言葉というとき日本語だけではない、様々な言葉がある、でも言葉の共通性として最初に事物がありその事物と結びついて言葉が生まれる
だからaではなくtheになる、その石でありその石のある場所やその石の形状とかまでイメージする、像としてイメージする。抽象的なaではないのである。
それで俳句を英語にしてみるとやはり言葉には共通性がありそれなりに石を表現できる。ただ英語力がないからこれは俳句を英語化したものではない、なんか俳句の英語でもルール化したものがすでにあるからだ。
an autumn dayというのは季節は毎年違ったものとして感じるからそうなる
英語とか外国語の特徴は中国語ですら韻を踏みやすい、中国語を習うために留学した人が中国語の音がいいから中国語にひかれたというのもそうである。
中国語は音がいいというとき日本では漢詩は漢字に注目しているが音にはあまり注目しないのである。
そして最近面白いと思ったのは日本語は何かアクセントがない、どこか強調するということがない、ただ日本語でも強調する語を強くいうと意味が変わる
やはり人間の言葉何か強調するとき強く言うことになる。それがアクセントである。
英語などはアクセントが多いというのは異民族と交わるとき何か強い調子で言わないと通じないということがあった、日本語のようなめりはりのない一本調子では通じない
言葉が最初音だというときどこの国でも字がなくても音としての話し言葉はあった。
日本語もそうである。漢字が入っても文字化して平安時代にひらがなができたのである。
人間がその土地と一体化する、アイディンティティ化するときやはりあまりにも広いとしにくい。
丁度相馬藩くらいの規模がアイディンティティ化しやすいのである。
現代の言葉は自然から離れて自然の事物から離れて自然と結び合う言葉ではない
そこに言葉の重みがなくなっている、沈黙もない世界だから余計に言葉に重みがなくなっている
ビジネス、政治、科学技術用語である。純自然と結びついた言葉ではない
それで詩語の衰退というのがある。ただ詩語というのは漢詩に多いから漢詩を学ばないと詩語は豊にならないだろう。自分の詩も詩語が貧弱だというのは確かである。
ただ大和言葉には詩語としてはもう一つ豊ではない、そもそも俳句という芸術が日本に生まれたのは極めて日本的風土に適して生まれたものである。
その短さが日本の風土に適していたのである。
グランドキャニオンとかで俳句とか茶道などしたら全く違和感があり通じない、ここは宇宙の別な惑星にでも来た感じだったからである。
こういう場所では言葉で現せないものを感じたのである。
いづれにしろ座禅とかは禅宗では沈黙を静寂の世界を追及した。それは日蓮宗とか念仏宗とはあまりにも違うのである。日蓮宗でも念仏宗でも一日唱え続ける、それは麻薬のように唱え続ける、何かあったら題目を唱えて解決しようとする、だから何か騒々しいのである。
自分にあっているのは禅宗でありその沈黙である。禅宗には何かそうした沈黙とか清楚があり枯山水も生まれた。
そもそも日蓮宗とか念仏宗は大衆化されやすいものだったのである、題目を唱えていればいいとなれば誰でもわかるからである。禅宗はその点大衆化しにくいものだったのである
結局自分の性格もあり石を追及したのが自分でもあった。人間の幸せはその人の性格に適した活動ができことにもある。自分の性格にあわないことを職業に選んだりしたら不幸になる。
自分は人と接するのが苦手である何か疲れるのである。
この十年間くらいは介護とか自分の病気とか俗世のことにかかわり苦労してきた。
これも経験だったけど今は何か前の静かな生活にもどっているから幸せだともなる
人がいない、人と極力かかわらない世界にいるとき安定して安らぐのである。
介護や自分の病気でかかわった人に毎日のように責められたから苦しかったのである。
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