2015年10月15日

15年くらいの前の自転車が放置されていたので警察から引き取らされた (所有することは何でも責任も課せられている)


15年くらいの前の自転車が放置されていたので

警察から引き取らされた

(所有することは何でも責任も課せられている)


全面的支配性

所有権は物の使用・収益・処分という全面的支配を内容とするという性質


この自転車は15年前とかでありなぜ隣の市にあったのかもわからない
もう使わないし忘れたものだった。だから捨ててくれと言ったら登録されているから捨てられないという
今度はひきとったら捨てるのもめんどうになる。

なぜこんなふうになったのだろう。それは盗まれたものなのかそれもわからない。
問題は防犯登録されていて警察の記録に残っていたから所有しているものとして責任をとらされたのだ。
そんなものいらないもう15年前のものだからいらないと言っても登録されているということでどうにもならない
登録抹消の手続きをしてなければ時効もない、その登録抹消もまためんどうなのである。車の場合は登録解除することは必ず必要である。自転車の場合はめんどうなことをしたくない

でも15年過ぎてもその所有者が特定されて記録に乗っているから責任をとらされる
つまり所有するということはその所有するものに対して責任をとらされるということである。
犬の場合も飼い主に登録の義務があるから責任をとらされる
これも結構めんどうだから犬を飼うことは責任が課せられる
猫にはそうした義務も登録もないから気楽であるから捨てられる猫も多い
ある一面こうして公的な場所に警察でも登録される記録される怖さである。
それで公式に責任が課せられることになるからだ。

 
そして犯罪でも登記簿でもなんでも記録されることはこうしてあとで責任が課せられる
記録はここで重要な証拠となるから責任から逃れられなくなるから怖いのである。
歴史でも記録かないともう百年もたったら事実がなになのかさえわからない
坂本竜馬が問題になるのは正式な記録がほとんどないから評価できないとなっている
過去でも記録がなければ探りようがないのである。

人間は所有するということは得に思える、自分の自由にできると思える、でも所有することは責任が課せられている
土地でも家でも所有することは相当な責任になる。
だから空家というのは放置されていていいのかと疑問になり法律が変わりいつまでも放置される空家は高い税金が課せられるし撤去も強制される
土地でも家でも所有することには責任が課せられているのだ
壊すにも相当な金がかかるから壊せないということもある。
それは自分の場合、放置された15年前もの自転車をひきとらせられたのと同じである。

誰も使わない空家はすでに危険でもあり本当はその人が所有している権利もなくなっているのかもしれない、でも登録されているから権利がありまた責任がある。
つまり権利があるところにはまた責任も生じているのである。
民主主義は権利だけを主張することと思っているが必ず権利には責任が生じている
それは自転車の所有一つでもそうなっていたのである。
「これを買って自分のものだからどうすると勝手だ」とはならない
家の場合は本当に古くなると修繕するのに相当に金がかかる、もう一端直し始めたから新しく買った方がいいくらいであり金がかかるからもう自分はしたくない
原発避難区域では家を壊しているのが多いのは放置すると家がいたむからそうなる
もう壊した方がいいとなる。
人間はまず何でも所有するにしても責任が生じる
この山を無料であげますよともらっても山を管理してくださいとなると金がかかるし手間もかかる、だから簡単に何でも無料でももらってもいいとはならない
「これは自分のものだからどうしようと勝手だ」とはならないのである。
空家でも回りのものに迷惑になるからそうなる

土地だって何も使わないで荒地にしておくと問題が起きるだろう。
そこにはネズミが増えたりゴミ捨て場にされたり何か問題が起きる
そもそも空家でも土地でも有効利用しないものは所有権失っている
ただ土地をもっているだけの人は所有する権利がないとなる
でも土地は今回の原発事故津波でこの辺の土地は三倍くらいに高騰したかもしれない。
土地はだから金より価値がでることがあるから手放さないのである。
70坪で700百万円と書いてあり高いなと思っていたがそこは町で一番いい土地なので
今になるとその土地は新しい建物が次々に建てられたから土地の値段は三倍にもなったろう。
大東建託のアパートが10棟も建ったからである。そういう大会社もかかわるからさらに土地の値段が上がったのである。

でも何も利用されないものには本質的には価値がない。あらゆるものは使用されて価値がでてくる。
例えば日常的に使う食器でもそれが高価なものでも飾ってあるだけでは価値がでない
使われて価値がでてくる。高価な芸術品的なものでもそうである。
茶道の茶碗でも並べて鑑賞しているだけなら価値がない
それは使ってみて使われて価値がででくる、でもいくら金があっても人間は今や特に老人になると物を買っても道具を買っても使えないという問題が起きる
いろいろ使いこなすことがめんどうになるのである。
となると老人は金をもっていても無駄だと言われるのもわかる
宝のもちくされ,金をもたせても有効に使えないとなる

フラワーアレンジメントするにしても花を買うのだがではこれを有効利用するとなるとそれなりのセンスとかまた暇も必要なのである。
何か忙しいとこういう趣味的なことに時間がさけなくなった
つまりここ十年は家事と介護で花すらゆっくり見ていられなかったのである。
何かするにはただ鑑賞するのにも金だけではたりない、時間が必要である。
その時間が限られているからできないとなる。
自分の場合はあと十年生きれば作品を完成できるがもし5年くらいになると中途で終わる
それは結局家事とか介護で時間がとられたことでもそうなった。

ともかくこの世の中は法律でも何でも具体的に解決をせまられるとき勉強することになるそれは科学でさえそうだった。放射線など関心もなかった。でも原発事故で知ることを強いられた。
学生時代なぜ勉強しないのか?それは現実の深刻な問題として自覚できない、ただ受験勉強とか単位をとるとかであり社会と関係ないからである。
でも社会に出れば必ず深刻な問題を解決するために学問も必要になってくる。
その時学問も生きたものとなるのである。
自分はもともと理屈好きだから学問に向いていたのかもしれない
ただ自ら勉強したいということがなかった
おそらく自ら課題をもち探求することが若いときからあれば良かったとなる
まず人間は社会は一つのことを探求するにも様々な知識が経験が必要になってくるからである。
だから老人はなにかしらともかく失敗しても経験しているから若い人は聞いていた方がいいとなる
失敗した人生でも若い人にはこうして失敗したのかと参考になるからである。

タグ:自転車登録
posted by 老鶯 at 09:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層
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