みちのくの要所ー白河の歴史の要約
白河の関が機能していた古代には白河郡の政庁である白河郡衙は現在の白河市中心部より9キロほど
東方の西白河郡泉崎村関和久(せきわく)に置かれており、現在の白河市街地域が発展するのは鎌倉時代以降、結城氏が支配するようになってからのことである。
東方の西白河郡泉崎村関和久(せきわく)に置かれており、現在の白河市街地域が発展するのは鎌倉時代以降、結城氏が支配するようになってからのことである。
白河藩が設立されたのは徳川秀忠の時代、1627年のことで、石高は十万石、初代藩主は隣の棚倉藩から移封となった丹羽重家だが、まもなく重家は幕府から小峰城の大規模な改修と町割り整備を命じられる。これは幕藩体制の確立にあたり、白河藩を奥州の外様大名に対する戦略拠点とするのが目的だったと思
われる。
この城郭の改修事業は1629年から4年がかりで完成。現在のJR白河駅の南側まで含む約60万uの大規模な城郭が完成した。
ところで、その丹羽重家自身も外様大名であるうえ、関ヶ原では西軍とみなされて一度は領地を没収され、後に許されて棚倉五万石を与えられた経緯を持っている。そのような経歴の重家が、奥州の要衝である
白河藩主に抜擢されるのは不思議な気もするが、それは丹羽氏が築城技術に長けていたからだと云われている。もともと丹羽家は織田信長の家老挌の重臣で、重家の父長秀は安土城築城の普請を担当して力量を発揮し、家臣の中にも優秀な土木・建築技術を持つ者が多かったことを買われたようだ。
小峰城築城の大事業を果たした丹羽氏は次の光重の代にまたもや二本松へ移封となり、親子二代の間に棚倉・白河・二本松と三度もの築城を行わなくてはならなかったが、その労苦が報われたのか、その後は国替えもなく、幕末まで二本松を領している。
小峰城築城の大事業を果たした丹羽氏は次の光重の代にまたもや二本松へ移封となり、親子二代の間に棚倉・白河・二本松と三度もの築城を行わなくてはならなかったが、その労苦が報われたのか、その後は国替えもなく、幕末まで二本松を領している。
●白川城と小峰城で本家と分家で跡目相続で争い
文治5年(1189)源頼朝の奥州征伐に参加し,功名をたてた結城朝光は、その恩賞として白河庄の地頭職(じとうしき)を与えられた。その後、朝光の孫の祐広(すけひろ)が正応2年(1289)頃、下総結城より移住して、この白川城を本拠としたと伝えられている
一四世紀の南北朝騒乱の時、四代目の宗広が奥州南朝軍の総大将となった。
一五世紀になると八代目直朝、九代目の政朝が一つの絶頂期を作った。
例えば政朝は文明三年(1471)に相馬高胤と一揆契約を結び「なにごとも助け合う」と同盟した。岩城氏とも兄弟の契約を交わした。
栃木の宇都宮氏とも保護する条約を交わし会津芦名氏からは自分の後妻を迎えて婚姻関係を作った。
一五世紀になると八代目直朝、九代目の政朝が一つの絶頂期を作った。
例えば政朝は文明三年(1471)に相馬高胤と一揆契約を結び「なにごとも助け合う」と同盟した。岩城氏とも兄弟の契約を交わした。
栃木の宇都宮氏とも保護する条約を交わし会津芦名氏からは自分の後妻を迎えて婚姻関係を作った。
後妻の子をかわいがりすぎて跡継ぎ問題が起きて本家と分家の争いが起きた。
それで政朝は小峰城の分家に滅ぼされてその後は衰退した。
これは良くある話である。ここで相馬藩も関係していた。白河ははり要所であり様々な勢力がここに集結したからである。
それで政朝は小峰城の分家に滅ぼされてその後は衰退した。
これは良くある話である。ここで相馬藩も関係していた。白河ははり要所であり様々な勢力がここに集結したからである。
●石垣からみた小峰城の歴史
白河は相馬からになるとなかなか行きにくい場所で行っていなかった。
小峰城には天守がない城がないとき行ったことがあった。
あそこの石垣が見物である。
地震で半円状の石垣は総崩れになった。白河でも十人以上が山崩れで死んだというのも意外だった。地震の被害はここにもありまた白河でも除染していた。
白河も風の関係で放射線に汚染されていたのである。
白河となる郡山からまた遠いから意外だった。郡山でも放射線量が高いとニュースでは騒いだ。地震から五年で石垣はようやく再建されたのである。
小峰城には天守がない城がないとき行ったことがあった。
あそこの石垣が見物である。
地震で半円状の石垣は総崩れになった。白河でも十人以上が山崩れで死んだというのも意外だった。地震の被害はここにもありまた白河でも除染していた。
白河も風の関係で放射線に汚染されていたのである。
白河となる郡山からまた遠いから意外だった。郡山でも放射線量が高いとニュースでは騒いだ。地震から五年で石垣はようやく再建されたのである。
この石垣で興味深いのは
丹羽家は織田信長の家老挌の重臣で、重家の父長秀は安土城築城の普請を担当して力量を発揮し、家臣の中にも優秀な土木・建築技術を持つ者が多かったことを買われたようだ。
丹羽氏は二本松城を築いた、築城にかかわる家臣をかかえていた。丹羽氏は棚倉藩の城代ともなり白河城の城主とも一時なっていた。
丹羽氏は二本松城を築いた、築城にかかわる家臣をかかえていた。丹羽氏は棚倉藩の城代ともなり白河城の城主とも一時なっていた。
丹羽氏と織田家は関係が深くそれは安土城とのかかわりがあった。
やはり城というのは石垣を組むこと城を造る事は一大事業だからそうなった。
「半円」は新しく現代風に作ったものだと思っていた。何か現代的だからである。
あれを復元するのは容易ではなかった。7000千個もの石を組み直したというからその苦労は大変なものだった。
やはり城というのは石垣を組むこと城を造る事は一大事業だからそうなった。
「半円」は新しく現代風に作ったものだと思っていた。何か現代的だからである。
あれを復元するのは容易ではなかった。7000千個もの石を組み直したというからその苦労は大変なものだった。
「穴太衆積み」と呼ばれる技術は個々の石それぞれが振動を吸収して揺れを抑え、地震や風雪に強いのが特徴。信長が延暦寺焼き打ちの後、残った石垣の堅固さに感心し、安土城の石垣を任せたとされる。その後、各地の築城に関わり、技術は豊臣秀吉が築いた大坂城(現・大阪城)や名古屋城などで用いられた。
石垣を作る技術集団がいて力をもった。ヨーロッパでも聖堂を建てた石工の集団が組織化され代々技術を伝えてフリーメーソンとして現代でも影の支配者だとか言われるのもそのためである。
二本松では茶をだした女性が「丹羽様」とか言っていたから住民には親しいものとして残っている。丹羽氏は小田家と関係が深い、次ぎに蒲生氏郷が会津の領主となり白河を支配した。
だから会津門があり会津町があった。会津町というとき会津の人が集団的に住んだから地名化した。
そこで興味深いのは蒲生氏郷はキリシタンであり白河城の石垣に十字が彫られているという、地元の女性が歴女というか大阪の女性であり説明してくれた。
だから会津門があり会津町があった。会津町というとき会津の人が集団的に住んだから地名化した。
そこで興味深いのは蒲生氏郷はキリシタンであり白河城の石垣に十字が彫られているという、地元の女性が歴女というか大阪の女性であり説明してくれた。
その60代くらいの女性は城めぐりしていたのである。歴史に詳しい女性だった。
歴女というとき若い女性と思ったが今では60代くらいの女性でも言える。
城めぐりの旅をしていたのである。
この話は知らない人が多いだろう。何でも城に向かって祈っていたのはその十字架が彫られていた石垣に向かって祈っていたのだという。
会津の蒲生氏郷が支配していたからここにもキリシタンがいたのである。
会津にはキリシタンの墓がある。迫害もあった。
歴女というとき若い女性と思ったが今では60代くらいの女性でも言える。
城めぐりの旅をしていたのである。
この話は知らない人が多いだろう。何でも城に向かって祈っていたのはその十字架が彫られていた石垣に向かって祈っていたのだという。
会津の蒲生氏郷が支配していたからここにもキリシタンがいたのである。
会津にはキリシタンの墓がある。迫害もあった。
白河には会津町があり城には会津門がある。これで思い出したのがドイツの
秀吉の時代になると石田三成が相馬藩をたずねている。それは自分のすぐ近くにある田中城をたずねていたのである。
それで相馬藩に三成の旗印が野馬追いに出ていたし相馬の殿様は三成の一字をもらって名前としている。
秀吉は白河街道を通って会津に来ている。
秀吉の時代になると石田三成が相馬藩をたずねている。それは自分のすぐ近くにある田中城をたずねていたのである。
それで相馬藩に三成の旗印が野馬追いに出ていたし相馬の殿様は三成の一字をもらって名前としている。
秀吉は白河街道を通って会津に来ている。
●明治維新の激戦地だった白河
白河から会津は勢至堂を通り会津にゆく白河街道である。この道が旧街道である。
白河口の攻防戦は、会津藩、仙台藩の両藩を主力とした奥羽列藩同盟軍と薩摩藩、長州藩を主力とした新政府軍との間で、およそ100日間にも渡って繰り広げられ、両軍合わせて800名を超える戦死者が出た、東北の戊辰戦争の中でも最大の激戦であった。
白河はみちのくの入り口であり要所だったから様々な勢力がしのぎを削る場所になった。茨城県とも境を接していて那須連峰も見えた。
こうした境が歴史が知るにはいい場所である。
郡山も万葉集の歌が残っているのだから古いし今では会津にも通じる鉄道が通るから郡山が交通の要所となっているが白河がもともと交通の要所でありここからみちのくの領域に入る場所で重要だったのである。
それで戊辰戦争では熾烈な争いの場所となり千人死んだとかなり白河の遊女の悲話が語られている。
棚倉でも戦いがありそれでは相馬藩士も死んでいる。棚倉藩は東白川郡になり今の白河は西白川郡である。
西白川郡には郡役所が置かれた。それが南湖公園に移築されていので知った。
福島県は明治維新に二本松県となり磐城県となった。白河県とならなかったのはやはり勢力的に二本松や磐城からすると小さいからそうなった。
古代では白河軍団がありこれも大きい勢力であり多賀城に木簡が残されている。
古代から要所の地であり福島県の玄関であり福島県を知るには白河から知るべきだとなるただ現代ではどうしても郡山から入る、そして白河が新幹線では新白河になっているのもややこしい、それで南湖から新白河駅へタクシーで行って仙台に行き日帰りで帰ってきたのである。
なぜ新白河駅を作ったのか?そこには一つの街になりホテルがいくつか建っている。
でも観光するには不便である。
ともかく新幹線だとかなり遠くても日帰りで行けることがわかった。
十年くらい旅していないから何か距離感だとかがわからなくなっていた。
十年もすれば時代は変わってゆく,特に新幹線で変わっていたことを実感したのである。
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