2015年09月23日

松川浦岩の子の塩釜神社の由来の謎 (慶長津波の被害があったのか?)



松川浦岩の子の塩釜神社の由来の謎


(慶長津波の被害があったのか?)


shiogamaaa111.jpg
クリック拡大(塩釜神社の碑)

( 1338 )延元三年暦応元年戌寅三月宇多一群
黒木城主大膳太夫定信公の勧請なり
(1544)天文13年頃より相馬氏栄え(1573-1591)
天正年間相馬讃岐守顕胤厚く此の神社を尊崇し
神田(塩田)五反歩を寄進す

(1611)慶長16年相馬年胤小高城より中村城に移り翌年17年5月岩の子此の地に社殿を復興す

慶長津波とは、1611年(慶長16年陰暦10月28日)、三陸沖を震源とした地震によって発生した津波。
 その範囲は、北海道南西部から東日本太平洋沿岸の広範囲に及ぶ。


 「奥州筋生波(ツナミ)」700人溺死(相馬藩政記)

 ここで生波をツナミとしている。奥州のツナミだから広い範囲にツナミがあったと記しているし今回のツナミと同じなのである。ツナミということば慶長津波で全国で普及して定着したのである。



 
大津波で鎌倉と由比に溺死者二百人を出し、9月には早雲が小田原城を攻め落としたという。

 他の史料は小田原「自落」と記すものもあり、津波と早雲の軍勢の両者によって大森氏は抵抗をあきらめたとのニュアンスが感じられる。
こういうことが相馬藩内でも起きた

相馬氏が進出しても相馬藩内は相馬氏の支配下にはない、館を構えて中世の豪族が支配していた。
それは小高に大きな港があり原町の泉にも港があり勢力をもっている豪族がいた。
磯部も港の機能があり佐藤氏が大きな勢力をもっていた。
そうした在地の豪族が相馬氏に敵対していたのである。
だから小田原で北条早雲が

津波と早雲の軍勢の両者によって大森氏は抵抗をあきらめたとのニュアンスが感じられる
http://musubu2.sblo.jp/article/125743125.html



佐藤氏が磯部館から鬼越城へ

築城年代は定かではないが永禄6年(1563年)頃に佐藤伊勢好信によって築かれたと云われる。佐藤氏は源義経の家臣佐藤忠信・継信兄弟の後裔を称し、好信ははじめ岩城氏の家臣であったが、後に相馬顕胤・盛胤に仕えて軍奉行を務めた。天文11年(1542年)伊達輝宗との合戦の功により磯部・日下石など宇多郡の内六ヶ村を領しはじめ磯部館(佐藤伊勢館)に居を構えた。しかし、
海水による浸食が激しく鬼越館を築いて居を移したという。
http://musubu.sblo.jp/article/99906310.html

相馬市黒木の諏訪神社の社頭の松は「桃井の松」と呼ばれる。諏訪神社は、もと宇多郡尾浜村(相馬市の松川浦北部)にあり、天文七年(1538)に西方の黒木に遷座になったといひ、当時の歌が伝はる。桃井とは神官の名前らしい。(諏訪神社由緒)

○陸奥の宇多の尾浜の浪風の音だに声こい(恋)の百永ももえい(桃井)の松  古歌



 
岩の子の塩釜神社の由来が碑に記してある。

1338年というと古い神社である。第一そこまで記録がさかのぼれることが大事である。

天正年間相馬讃岐守顕胤厚く此の神社を尊崇し神田(塩田)五反歩を寄進す

慶長津波の前にここに塩田があり寄進しているのである。

(1611)慶長16年相馬年胤小高城より中村城に移り翌年17年5月岩の子此の地に社殿を復興す

慶長津波があったとき小高城より中村城に移転したのである。
津波があったときなぜ中村城に移転したのか?津波の後に移転したのか?
いづれにしろどっちにしろ700人も溺死したときなぜそんな大被害があったとき城を移転するという大事業を行ったのかとなる。
そんな力が財政的にも人手でもあったのかとなる。
そもそも城の移転とか他のことはこうして記録されているのに慶長津波は記録されないのか?
佐藤氏の磯部館から今の鬼越館の移転も記されている。諏訪神社の移転も記されている。諏訪神社にはそこまで津波で何か流されてきたとか伝説が伝わっている。
あそこまで津波が来たのかとなる。ではなぜ松川浦から今の市の奥の方に移転したのだろうか?
それも謎であるが時代的には前だから慶長津波のことを語るものではない
でも何か移転するには理由があったとしても語られていないのである。
そしてなぜそこに津波の伝説が語られているのだろうか?
これはおそらくもしかしたら松川浦にその神社があったとき津波があってそれが伝えられているのか?
ただそれが慶長津波かとなると疑問になる。年代が明確に記されているからである。

小田原「自落」と記すものもあり、津波と早雲の軍勢の両者によって大森氏は抵抗をあきらめたとのニュアンスが感じられる

慶長津波の時は戦国時代であり熾烈な領土獲得の争いをしていた。
その時の津波は相馬氏にとって有利な方向に働いた。小高の港が壊滅したら岡田氏の力がそがれたとか佐藤氏でも伊達に味方していたとか相馬氏とは対抗していたのである。
だから慶長津波は相馬氏に有利に働いた。
だから津波の被害は記録として残さないし語らなかったともなる
それで海老の大工が移転した中村の天守を造営に行こうとしたら引き止められた。
それが津波を現していた伝説かもしれない、大原と関係していたのは相馬氏は大原から小池と勢力を伸ばしていったからである。
海側は相馬氏の勢力圏に支配下に入っていないのである。

牛越城でも泉氏が泉官衙跡のある港を支配していたから山の方に城を築いたのである。海の方はあとから相馬氏が進出したのである。
ともかくなぜ慶長津波の記録がないのかということ自体が謎であり不可解なのである。
元禄時代になると記録が残されるようになったとしてもそれでもその前からの記録もこうして記録されているのである。
それが全くないことはかえってその記録をしない、あえて津波があっても記録しないというふうに考える
その時は戦国時代であり津波の被害より敵に勝つことが第一になる。
すると津波が海側の豪族の力をそいでくれたので相馬氏がその時都合よく勢力を拡大して中村に城を移転できたとなる。
それは津波のあったとき同じ時期だというのもそういうことからかもしれない。
津波によって海側の有力豪族が抵抗をあきらめた。
磯部の佐藤氏も伊達側だったのだからそうなる

(1611)慶長16年相馬年胤小高城より中村城に移り翌年17年5月岩の子此の地に社殿を復興す

社殿を復興すとはこの社殿がどうなったのか、津波がここまで来たのか?
今回の津波では来ていない、でもあの高台に神社があったのか?
それも一つの謎である。今ある場所に神社があるとは限らないのである。
平地にあれば流されて高台に移したということも考えられる
ただ古歌が残っているからあれは今の高台から歌ったものである。
とするとあそこにもともと神社はあったとなる
いづれにしろ外から来た研究者が津波がなかったのではという推測したのも慶長津波の記録がないからである。
相馬藩政記に一行あったとても津波の被害のあった場所になにかしら記録が残っていてもいいのである。それが伝説にしても不確かなのである。
伝説の弱点は年代が不明なのことなのである。
だから原釜の津神社(つのみや)に津波が来たとき逃げると助かるということが伝えられてきたというコメントが松川浦の人からあった。
ところがこの津(つのみや)神社は相馬藩内にいくつかありそれは津波とは関係ない、ツノガノアラシトのツノであり製鉄関係で渡来人が移動してきた跡だったのである。
その関係の神社でありそれが渡来系だから隠されてきたのである。
その伝承もいつの時代のものか特定できないから困るのである。


慶長津波のことをいろいろ探求してきたかがこの辺は結論になるのかもしれない
これ以上調べようがないからである。
他の人がまた新しい情報が教えてくれればまた別な見方もでてくる
結局歴史というのは記録されずに消えることもありうる
何か重大なことでも記録が消えて歴史に残されないということもある。
今でもそういうことは現実に起きている。マスメデアで報道することがすべてではない
確実に重要なことが報道されないのである。
その報道されないことが最も重要なことなのである。
それは権力で隠されるし表に現れないのであ。闇に葬られものがいくらでもある。
その真実が知らされないから原発事故とかにつながる。
つまり情報というのは権力によって操作されることが多いのである。
権力者にとって都合の悪いことは知らせない、相馬藩でも相馬藩政記にすべてが記されることはない。都合の悪いことは記さないということがあった。
それが慶長津波であったかもしれない、その理由はただ定かではない
戦国時代の中で争いの中で慶長津波は隠されてしまったとなる。



 
posted by 老鶯 at 00:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係
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