2006年11月01日

介護 俳句(老いも病気も弱さも人間には必要なものとして与えられた)

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高齢化晩年長し秋の薔薇

薄日さし弱れる一つあきつかな



誰しも老いゆく日が・・・

輝く青春の日は短い
真夏の薔薇のように
若葉のように輝いていた
入道雲のようにぐんぐん伸びた
恐れを知らぬその熱と力よ
その日は長くつづかない
乗り降り少ない田舎の駅
秋の薔薇が色あせ美を保つ
高齢化社会晩年は長い
薄日さし弱るあきつ一つ
我が前に見つつあわれ
黄落の公園の樹々
いつも車椅子を押す妻
二本の落木を今日も見る
若かりし時の過ぎ去り安し
知らざりしかな若き日の時
いかに貴重なるかを・・・
時はそを待たずそも老いぬれ
そして昔を思うのみかも


あきつ一匹に薄日さしている。その少なくなったあきつ、やがて死んでゆくあきつ、それを見つめる自分、これは病人や弱ってゆく老人じゃないか?ふとそう思った。今までこんなふうに見ていない、老いとか病人をみてるからそうなった。弱りやがて死んでゆくあきつ、それは病人であり老人であり見ているのは介護する人となる。人間はみんなやがてはそうなる。老いたことを意識するのはどうしても体力がなくなったとか病気になったときなのだ。老いても元気な人は体が丈夫であれば老いは感じない、病気になった人は若くても弱気になる。つまり人間は貧乏でも体が元気であればそんなに弱さというのは感じないのだ。弱さを意識するのは病気になったり老いて体が不自由になったりするときである。

ではこの老いとか病気をただマイナスなものとして拒否すべきものとしてだけみるのか?いつまでも若くありたいと言ってもできないのだ。とすると老いにも何か人間としての意味がある。老いることは一生のなかにプログラムの中に神が組み入れてあるのだ。若さだけを病気しない体だけをくださいといっても神様はそうししてくれない、老いも病気も人間にある程度必要なものとして与えたというのは不思議だがそういう面はあるのだ。なぜなら強いだけの病気もしない人間がス−パ−マンがいたとしたらそれも異常かもしれないからだ。その人は人の弱さをしらないから弱い人に同情することがない、自分は弱くならないからだ。それはロボットのような存在になってしまわないか?老いがあり病気があり弱さを知るということはト−タルな人間として必要なことなのだ。青年は弱さをしらないから横暴であり弱いものを簡単に踏みにじる。老人をふみにじることもできる。弱さをしらないものはそうなってしまう。

ともかく晩年は長くなった。晩年をどう生きるかが高齢化社会の課題ともなる。高齢化はすべてが元気な人と限らないし老々介護とか弱さをみることが仕事になる、介護が仕事になることも多くなるのだ。自らが弱くなりまた老い病気になる弱さをみる人が多くなる社会である。50とか60で死んでいればそうならない、それは人の弱さをみるというより突然死んでしまうような感じになる。老いとか弱さはいやであるが人間にとってト−タルな人生の中で神が与えた必要なものとして与えられたのだからそれを受けいれざるをえない、いやでもどうしようないのだ。若さがあったら老いもあるしそれを受けいれざるを得ない若さだけを強さだけを与えられることはできない、弱さ、老いも与えられてはじめて強さの意味も知る、若さの何たるかもしるとなる。しかしそれを知るときはすでに時遅しとなっている。若さも人生の中の一つの過程であり老いもまた人生の中の最終章としてある。一つの本とするときは物語とするときはじめと終わりがある。その終わりが老いだったり病気なのである。老いとか病気のなかで人生を深く見つめ直すこともある。何であれ人間に与えられたものそれは何かを人間に知らしめるために神が与えたのだ。確かにむごい病気がありなぜこんな病気にならねばならないのか?ヨブのように悩むことがあるがヨブはそれを受けいれた。神が与えたものはむごい病気でも様々な苦難でも何かしら意味あるものとして受けいれたのである。

人間強いばかりの人とか何か苦労を知らない人、余りにも幸福な人、そういう人は何か欠けているし強いだけの人は異常なものとなってしまう。人間には必ず弱さがありその弱さの故に人間なのである。人間はだから初めに若さという強さのみ与えられのちに老いの弱さをしることは反対なのである。初めに人間の弱さを知り青春の強さを知れば本当の強さが何かわかるのだ。弱さ知らない強さは異常になる。認知症になると人間の弱さが体の病気ではなく脳に心にもろにでてきて驚く、その驚きは尋常のものではない、銀行に金があってもおろせない、金があることすらわからなくなるという恐るべき弱者になってしまう。それが何でもできた強い人がなるのだから驚きを通り越して恐怖までなる。こんなふうに人間をしてしまうのはなぜなのか?そういう疑問がやはりつきまとうのだ。自分もそんなふうになったらどうしようとその恐怖は尋常なものでなくなる。神はこれほどまでに人間にむごい仕打ちをするのはなぜかとなる。結局人間にいくら地位があり金があり権力があっても人間は最後は弱い者であり弱さを知らしめるためにそうしたとしかいいようがないのだ。

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