2008年06月24日

忘れられた道−卒塔婆峠

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忘れられた道−卒塔婆峠
 
玉野地区は宇多郡・伊達郡・伊具郡の境界に位置している。相馬地区から伊達郡や福島へ塩荷を駄送する。街道の中継基地で重要な場所であった

その霊山城が消失したとき鹿島町真野逃れてきたのがの桑折五郎元家であった。元家は顕家の姫をともなって落ち延びた。真野にすでに館をもっていたのでそこを頼りに落ち延びたのだが北朝の勢力が周囲に迫っていて落ち延びることが容易でないために旅芸人の姿に身をやつして玉野から卒塔婆峠に入り栃窪にでて真野に入ってきた。

卒塔婆は、もちろん信仰上のものですが、一町(約109m)ごとに立ち、町数が刻まれ道標の役目も兼ねています。この他里石も三十六町ごとに立てられ、一里が三十六町であることを表しています
http://www.town.kudoyama.wakayama.jp/Contents/

7D8210E3B7/12/1209/1209.html
 
相馬市から前は中村市から霊山の方へ自転車で行った。そこが昔の街道だった。当時はバスも通っていたが今は通っていない、それで車がないと霊山には行きにくくなった。伊達氏とか米沢藩とか玉野は境界争いの場所だったから要所の地だった。そして玉野から大倉に通じている道があった。卒塔婆峠という峠を越えて大倉に入る道である。これは南北朝からあったとすると相当古い道なのだ。この道は大倉から飯館の草野と通じていた。卒塔婆峠とは本当に誰かがここで死んで卒塔婆が建てられていたので卒塔婆峠となったとか言われるが卒塔婆は道標の役目もしていたのだから特別ここで事件があったとか必ずしも人が埋まっている所とは限らないだろう。まちがいやすいのは大倉から佐須へ真野川をさかのぼる道は昔はなかった。もしあるとすれば真野川をさかのぼるほかなかった。卒塔婆峠の道はありここを通って霊山城陥落炎上したとき桑折五郎が真野に逃れてきて真野五郎と称したのだ。相馬(原釜)から栃窪−飯館への塩の道は今でもその跡が残っているし塩を運ぶ道として重要だったし相馬藩もここを通り二本松へ出た。それで栃窪の山中に殿様道というのが残されたのである。ところが卒塔婆峠というのは相馬藩の殿様が通ったようなことはない、ただ玉野に通じていた。でも草野−大倉となると利用する人もまれだった。大倉から真野や中村(相馬市)や松川浦へは通じやすい、それは縄文時代から人が住み通じていた。エイが大倉から発見されたことは海との交流があった。でも飯館の草野→大倉→玉野という道筋はどういう人が利用したのか具体的にイメ−ジしにくいのだ。ただ霊山→玉野→相馬という街道がありそこに通じる道として昔からあった。南北朝時代頻繁に利用されていたとするとずいぶん古い道である。玉野から大倉へ出て真野川そいを真野に下る道は真野への近道なのである。ただ草野から大倉をへて玉野へゆく道は坂道がきついしどれほど利用されていたのか?親戚関係で飯館の草野辺りから玉野に行き来した人の話があるが今になると本当に落葉に埋もれた古道になってしまった。
 
落葉踏み卒塔婆峠ゆく人の今日一人あり猿の知るらむ

我が越ゆる卒塔婆峠遠きかな玉野への道秋の日暮れむ
 
ここは今や猿しか知られないような道になっている。都路にも古道があるがこれも古道になってしまった。一方佐須からは真野川沿いに舗装の道路ができたからこの道を利用する人は増えた。古道は歴史の道だからまず古道を探ることが郷土史には必要である。
posted by 老鶯 at 21:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)
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