2015年09月05日

100年後の誰かへ〜浪江町赤宇木村の記憶〜(NHK)を見て (これから全国で廃村化してゆく象徴なのか?)

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100年後の誰かへ〜浪江町赤宇木村の記憶〜(NHK)を見て


(これから全国で廃村化してゆく象徴なのか?)


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かなごいし

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 再び114号に戻って西へ。ここは、大字赤宇木(あこうぎ)字塩浸(しおびて)。難読の地名で知られる。
 写真上の石井商店のところを右折して山に入れば、手七郎(てしちろう、てっちろう)を経て飯舘村長泥(ながどろ)に下る。また、そのまま富岡街道を進めば津島の町を経て、川俣町、福島市に至る。
浪江の塩浸は塩の道だったことに由来しているという。かつて浪江の浜では製塩が行われ、その塩がこの街道を通って中通り方面に運ばれていた。そして、この塩浸で、塩と食料品の交換が行われていたという。 ここが浜通りと中通りをつなぐ交通・交易の要衝だったことが窺える。
http://fukushima20110311.blog.fc2.com/blog-entry-95.html

塩浸(しおびで)の由来としてはあそこに小さな川が流れていて浪江から馬で俵で塩を運んできた時、その川に落として水に浸ったためにその名がついたとどこかに書いてあった。あそこに小さな店があり疲れて休む場所だった。
あそこからは津島が近いが一方の道は手七朗へとつづいている。
NHKの放送で赤宇木には80軒あったという、あまり家が見えなかったけど道からはずれた所の奥にあったのだろう。
塩の道は普通にあるがあそこで興味深かったのはかなごいしを探していてそれが見つかったことである。
カナゴイシとは製鉄で残された金糞でありノロとも言われた。だから金糞山とのろ山とかあるし金糞とついた地名がある。製鉄に関する地名は無数にある。
河童は山とかで製鉄にたずさわる人が伝説化したのだという。金糞を川で探していたからだという、他の説明では水酸化鉄が葦につき非常に大きくなったものを金糞と呼ぶとあるあそこで興味深かったのは盛岡の宮古から運ばれた鉄の記録が残っていたことである。
するとあそこで鉄を加工したのか、鍬とか鎌を作ったいたというが鍛冶屋の記録がないとするとどうなのか?
宮古から鉄が請戸に運ばれたことは岩本氏の研究で知られている
でも赤宇木の塩浸に運ばれたということはなぜなのかとなる。
葛尾村の葛尾大臣は製鉄事業で財を成したことは知られている。
でも塩浸にその宮古からの鉄を運んでいたというのはなぜだろうとなる。
その鉄を加工したという鍛冶屋などの地名も記録もないとしたらわからない。
ともかく製鉄に関することは全国に残っているからめずらしくはないのである。

鉄滓は「金糞」と呼ばれて近くに廃棄されていたので、鉄滓の出る所の近くには何らかの製鉄遺跡があったと考えられます
https://www.hitachi-metals.co.jp/tatara/nnp020609.htm

南向き斜面に製鉄炉2基、木炭窯2基、廃滓場(はいさいば)2基が確認され製鉄に必要な施設が揃っている。
製鉄炉から流れ出た鉄滓(てつさい 製鉄の過程ででる不純物 金クソ)を谷川に流し落とした模様。
http://lib.city.kashiwazaki.niigata.jp/hidamari/kashiwazaki/photo/2005/20050828/seitetuiseki.html


赤宇木では日露戦争で栗を陸軍に売って栗がなくなって困ったという話が残っていた。
あの辺はあれだけ山深いから栗がとれた。椚平(くぬぎ)という地名もクヌギはとんぐりである。栃の実もたべられていた、栃餅が有名である。山には何かしら糧になるものがあった。だからこそ人が縄文時代から住んでいたとなる。あの辺でも飢饉があり天明時代の碑じゃないかと山の中に埋もれていた。
ただ天明という時代が刻まれていないのが見えないから不明である。
南無阿弥陀仏の供養塔などがあったから飢饉と関係しているかもしれない
ただ飢饉というとき伊達藩でも東北でも米の不作で飢饉になったのである。
米は商品として江戸に送られていた。米をその時商品作物として作っていて不作になったとき他の食物を得ることができなくなった。稗とか他のものを作っていれば飢えをしのげた。だから山の方が何かそうした米だけに頼らないとすると飢饉からまねがれたとも言われる。
飯館村でも飢饉があったというとき米がとれないからそうなった。
縄文時代は飢饉というものがなかったかもしれない、多様な食料に頼っていたからである飢饉というとき米がとれないということで致命的になったのである。


あそこを通った時常に下冷田という地名が心に残った。

「冷田」とは、文字通り暖まらない田のようです。原因として、日照が悪ければ日影という地名か使われますので、これは違うようてす。では、水が冷えるのでしょうか。水温が低ければ、稲の成育に大きを障害となることは想像に難くありません
前の様な条件下で稲を育てるには、水温の管理、米自体の品種改良など苦労が多かったと想像されます。 品種に関連しますが、ヒエダは「稗田」とも呼ばれます。稗は、米に比べれば雑穀とされますが、環境条件の悪い場所でも収穫できます
http://www.kumagaya-bunkazai.jp/museum/dokusyo/timei/hieda.htm

まさにあそこはこういう条件の悪い場所だったのである。飯館村だと広い平野があるがここも高原であり冷田となる自然条件にあった。それで飢饉があった。
自分の曾祖父は津島から葛尾村に出てそこに柏原というところがある。津島から意外と近いから赤宇木というのも何かその辺とも関係していた。
赤宇木の悲劇はあそこから原発の煙突が見えていた。そして風にのって放射性物質が雨と雪がふりもろに被爆してしまった不運があった。
とにかく10とか20マイクロシーベルトとかなると高い、もう百年は住めないと言っていたそれで記録を残すために80軒住んでいた人たちを訪ね歩いて記録している。
その一人に101才の女性がいた。その人が田植え歌を歌ったのには驚いた。
自分の母も百歳だが過去のことをあんな歌を歌うことはできない,認知症であり過去のことも思い出せなくなっている。
ただ顔をみるとあんなふうに皺くちゃにはなっていない、それにしても百歳の人はどこにでも今はいる
ある人は東京の高層ビルに住んでいた。いつも高いビルの窓から大都会の東京を見ているこれもあまりにも環境が違うから精神的にもその衝撃が大きいだろう。
特に老人になってからはとても都会に溶け込めないからである。

こうして廃村になるのは原発事故が起きた所だけではない、限界集落が各地にありそこもこうして廃村になり廃墟の村と化してゆく、そういう場所が廃墟趣味の人によって写真にインターネットでいくらでもある。
何かそこには捨てられた墓とか碑とかがあり幽鬼が彷徨っているような異様な雰囲気になる。
赤宇木村の歴史も古く位牌でも江戸時代のものがあった。それだげ代々受け継がれて来たのである。その歴史が途絶えるときそこは幽鬼が彷徨うものとなる。
なぜなら時々村の人が帰ってそうした古い碑とか墓に花をささげたりしているがそれがなくなるとそこには死んだ人が幽鬼となって彷徨うような異様なものとなってしまう。
一旦人が住んだ場所は人が住まない自然とは違う,何か死んだ人の霊魂が彷徨っているような状態になるのであり気持悪いものとなってしまう。
津島もまた放射線量が高かった。あそこでは戦後開拓に入った一団があった。
それで結束が強いという、飯館村でも戦後開拓に入った人がいた。鹿島の小池でも引揚者が開拓に入った人を知っている、小池といえば街から近いのである。
そういう場所まで働く場所も求めて開拓に入ったのである。
だから赤宇木村でも開拓に入った人がいたのかと思うがその辺はわからない
ただ一軒一軒が赤宇木村の歴史だというときそういう小さい村は一軒のもっている意味が大きくなるのである。10万とかの都会になればそうはならない、もう特別な家でないかぎり無視されてしまうだろう。

赤宇木村が山中と江戸時代の鉄が運ばれた記録に記されていることは相馬藩の山中郷内だったのか、しそこは浪江の標葉郷である。津島が山中郷だからあそこも山中郷内に入っていた。
津島では中国人の妻が夫を鉈でおそったということがあった。それは中国人の妻が都会に住みたいということでそうなった。あんな山奥だとは思っていなかったからだ。
それも不思議なことに今はどうなっているのか?
避難して都会に出たかもしれない、そしたら願いがかなったことになるのも不思議だとなる。
それから戦争で死んだ村人のことも語られた。それは日露戦争からはじまり太平洋戦争ではかなりの数が戦死して語られていた。あのような村でも死んだ人の数が村にしては多いのである。それだけあの戦争では大量に日本人が死んだのである。
その人たちの霊も村がなくなると祀る人もなくなり帰る場所もなくなってしまうとういこともある。
ともかく一つの村の歴史が途絶えそこが廃村になることが何を意味しているのか?
それはここだけではない、全国に限界集落があり老人だけの村があり消滅してゆく
それは市町村までも将来消滅してゆくという人がいる。
そういうことがこの辺では先取りして現実化しているのである。

今野さんという人が村の記録を集めていたが前に赤生木からメールが来た人かもしれないやはり今野さんという姓だったからだ
小高の鳩原村の出身の人も知っているがあそこも街からはずれているからあそこに住んでいた女性は鹿島区の仮設に住んでいて帰らないというから廃村になるかもしれない
あそこには小学校もあった。ということはあそこで学んだとなる。
小高に関しては放射線量がこの辺と変わらず低いのである。
赤生木とかとても住めない放射線量である。だからなぜ帰らないのだろうとなる。
それは帰ると住んでしまうと補償金がもらえなくなるからである。
あと一年伸びたから帰らない、その間帰らないで補償金もらっていた方がいいとなる。
それで地元の人には批判される。小高は十分に帰って暮らせるのだけど補償金もらうために帰らないのである。
補償金がかえって人々を分断して復興させなくなくしてまったという皮肉があったのである。

塩浸に我は休みぬ
請戸より遠き道のり
運ばるる塩と鉄
その跡たずねてあわれ
山中深く残る碑も
人住まず忘れられむや
かすかに虫の鳴く


posted by 老鶯 at 09:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)
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