2006年10月31日

介護の俳句(黄落、晩菊)

晩菊や認知症の姉と暮らすかな

白と黄の晩菊静か老夫婦

黄落や車椅子押す婦人かな

道端に猫うづくまり落葉かな


落葉の公園を行くといつも車椅子を押している女性がいる。車椅子の男性は夫なのだろう。押しているのは妻である。それなりの年である。そんな風景が高齢化社会には多くなるのではないか、いたるところにそういう人をみかけるようになる。自分もその一人になってしまった、他の人はもっとひどい、現代はまさに介護の時代となってしまう。確かに過去にも介護はあったが今日のように医療が発達し栄養がいい時代はやはり病人でも長生きするから介護する時間も長くなる。いろいろな好条件が重なって介護の時代という今までにない社会を経験するようになったのかもしれない、介護は究極の家事だから男性はむいていないというのは本当である。料理とかいろいろな世話は女性が本領としてきたし経験もあるから男性には向いていないのだ。だから男性が女性の介護で殺人にいたるのが多いのだ。

介護になるともろに家族の状況が露呈するというのは本当である。家族でもいいかげんに家族に貢献もしない人は介護もしたくないのは人情だからどうにもならない、これは家族によってみんな違うからむずかしいのだ。単に個々人の愛情というのではなくその人が家族の中でどういう地位をしめていたかなどが大事になる。家族の歴史とか人間関係とか総合的なものでその人の価値が決められてゆくのだ。それが個々の家庭で違うから認知症なんかになっても一様にどうしたらいいかなど対処方法は語れないのだ。認知症は体だけの病気ではないから家庭のことやら人間関係は深く影響する。

晩菊というとき歳月の重みとして人生の終わりとしての晩菊というイメ−ジがありこれはやはり長く生きてこそ人生を感じる、老年にこそ本当の人生の意味がわかり人生をしみじみふりかえるということがある。晩菊といっても老人が見る晩菊と中年が見る晩菊とか立場とか年齢により違っているのだ。自然もその人の置かれた立場でみんな違ってくるのだ。介護していれば介護者の目で他人とか社会も見てしまうだろう。差別されたりすると余計世の中の人の無情を感じたりする。介護にしても少しでも介護した人でないとその気持ちがわからないのである。同情というのはその人が苦しんでみるとその苦しんだ人のことが多少なりともわかるから同情するとなる。全然そうした苦しい経験した人がない人は外見は寄付などしても心から同情することはないだろう。インドで貧乏人の方が乞食にめぐむというのもそのためである。貧乏しているから貧乏人の気持ちがわかるからだ。貧乏したことがない人は貧乏がどういうことかもわからないのである。

道端にうづくまっている猫、これもなんか老人をイメ−ジしないか?無用のものとして道端にうづくまっているような老人も家庭のなかでも他にもいるだろう。猫と老人はあっている。猫だけをかわいがって遺産まで猫に残した金持ちもいたことでもわかるのだ。
この記事へのコメント

この記事へのトラックバック