生きてるか生きていないかの判断
(泣き笑うだけでも生きている)
●しゃべれない笑いも泣きもしない人は死んでいる?
同じ病室のばあさんは骨と皮になり生きているか死んでいるのかわからない、しゃべることもできない、笑うことも泣くこともない、ポカ−ンと口あけて やっと呼吸しているだけだ、息子がきても誰だかもわからんらしい 、ただしゃべれずに泣くことと笑うことしかできない人がいた 。この人は表情があり話しかけると話は通じていた。、この人は全くなにも 通じることができない、この人は生きてるのだろうかと疑問に思った 。でも息子は50万の電気を通す機械を買い毎日体に電流を通している。それで長生きできているという、家族にとってはあんなになっても 生かしておきたいのだろうか?本人もただ息しているだけだから苦しいだけである 。その人のためには看護師もしょっちゅうきて見ているし医者も来る 。だから死なない、ただ生きているということはどういうことなのか? ただ息している人が生きているのだろうかという疑問をもった 。延命治療の是非や金がかかる問題を別にして人間が生きているということはどういうことなのか?その判定はむずかしい、笑い泣くことしかできない人でも人間は生きている、通じていると感じたからこの人は生きていると思った。不思議なのはその人は表情が良く笑っているとなごむのである。人間はしゃべれなくても心が通じ合わせることができることを実感した。
人間はしゃべるだけがコミニケ−ションすることではない、しゃべれなくてもできるのだ。動物はしゃべれない、鳴いたりしていてしゃべる代わりにはしているが動物は笑ったり泣いたりしない、そうした感情がないのだ。人間は悲しくて泣くおかしくて楽しくて笑うということができる。赤ん坊が最初に笑うことにより動物と区別できる。しゃべることで動物と区別できるのではない、笑ったり泣いたりすることで動物と区別できるのである。だから笑い泣くという感情も喪失したとき人間として死んでしまったのかもしれない、例え息をしていてもそうなのかもしれない、延命治療の問題は金の問題であるが人間が生きているかどうかの線引きをどうするのか?一生懸命生かそうとしている人には悪いのだが隣の老人は死人のように思えた。そういう人に金をかけるのは外からみて無駄なように思えた。ただ人間の価値は計りがたい、家族のなかでそれでも生かそうとしていることはそこに親に対する特別の思いがあるかもしれないからだ。外からみてわからないから医者が無難に延命をしているのが義務だとなる。その人の命の価値は簡単に判断できないからだ。客観的に判断するなら年齢で90才以上は救急は受け付けないとかなる、個々のの命の価値についてはあれこれ言わない、それを言ったらきりがないし外部では判断できないからだ。
●しゃべれなくても心を通じ合うなら生きている
ある老人は医者の重大なミスで簡単に死んでしまったが年だということで医者の責任を問わない、一般的にそういう傾向があるから人工呼吸器を誤ってはずしたままで看護婦が死なせたと訴えられるのは問題だという指摘もある。でも罪は軽減される。医者でも老人を相手にするのはいいという、あまり責任を問われないからだという、若い人だと緊張するというのもわかる。老人は死んでも年ですからねと家族もそんなに責任を問わないのである。むしろほっとしている家族さえいるかもしれないからだ。私がここで問題にしたのは人間が生きているということはどういうことなのだろうかということである。しゃべれなくても人間は生きている、生きているということは心が通じることである。認知症でも心は通じる、精神の病でも心が通じる・・・・人間はしゃべれなくても心を通じ合わすことができる、言葉も大事だがそれ以上に大事なものがある。愛があれば言葉なくても愛は通じる、言葉が通じなくても家族の愛でももって過酷な難病の人を介護している人がいる。老人問題は大きな問題として金がかかりすぎることなのだ。延命治療も金がかかりすぎる、それが全国民の負担になる。もしこの金の問題を考えないなら別に笑う泣くだけの人間でも心が通じるのだから生かしていても問題ないのである。
●介護は二人きりになると危険、事件を起しやすい
ともかく病院はどこも老人病院でありこれを支えるのは若い人の労力でありその人員も金も不足している。例え泣く笑うことしかない人でも生きていることはわかるのだがこれからそういうことは関係なく金のかかる老人は早く死んでもらいたいとなってしまうだろう。家族で介護して生かすなら生きているか死んでいるかわからない人でもいいのだが一旦税金がかかるとなると負担が全国民にかかってくるから問題になる。私も病院ではずいぶん家族は世話になった。こんなにまでしてくれてありがたいと心から思った。なぜなら自分の場合、認知症の介護は誰も助けてくれる人がいなかった。一部例外があったがほとんど二人きりだった。認知症になってから付き合いあった人もよりつかなりめんどうみるのはほとんど自分一人きりになった。隣近所は差別、偏見しかない冷たいものだった。病院に行ったら認知症のことではないが体のことでいろいろ世話をやくのをみてつくづく病院の方が本人はともかく自分にとってはいいと思った。家にいたときは誰も声かけるものもいなかった。認知症とか精神の病はそうなりやすいのだ。そして介護は二人きりになりやすい゛誰か一人におしつけられるのだ。この二人きりにされてしまうことが危険なのである。事件を起こしているのは二人きりになり外からの援助を受けられない人である。自分もそういう状態になっていたのだ。体は悪くなかったが認知症はやっかいでありやはり外部の助けが必要だったが得られなかったのである。だから認知症でも介護でも孤立してしまうと事件起しやすいのである。在宅介護は様々な外部からの援助があってできるものである。そういうものがないと事件になりやすい、現実には在宅介護の態勢はなく認知症なども何ら回りの理解がなく、放置されているのが多い、だから認知症でも一人でかかえないでグル−プホ−ムとかに入れてみんなでみるというのがいいと思った。在宅がいいとしてもそういう態勢がないと無理なのだ。
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