2008年06月18日

相馬市は城跡のお掘りが今も中心 (歴史は地理的位置関係が重要)


相馬市は城跡のお掘りが今も中心 

(歴史は地理的位置関係が重要)


城の側守りとあれな岡田館その位置にこそ昔偲ばれ


この頃は病院通いで原町には行っているが相馬にはなかなか行けなかった。相馬の中心は城跡の堀りなのである。街の中心地がどこなのかというとき外国でも旧市街とか新しい街がある。旅で泊まるなら歴史ある旧市街である。インタ−ネットに相馬の城については古い城で良く残っているとかの評価がある。城マニアがいて外部の人が解説している。ここではマイナ−な城跡も紹介しているからそれ比べれば形は残っているということである。歴史はその場をともかく自ら踏まないとわかりにくい、でも一回だけ行ったくらいでは普通はわからない、地元に住んでいて堀りのすぐ側に岡田館とあるから岡田氏は相馬藩にとって重要な役割を果たした人だと実感する。城の回りにはどこでも侍屋敷があり城を守るために取り囲んでいた。一方足軽は城から相当遠く離れて住んでいた。仙台藩でも今の仙台駅辺り五百人町とかあるのだから遠いのである。この位置関係が大事なのである。岡田館とあるときまさに城を守るために家老のように従っていたことが位置関係からわかる。白虎隊が城が燃えているというとき死を覚悟して実際に死を選んだのもそのためである。それほど城は大事であり城とともにあり城が命だったのだ。江戸時代は交通が発達していないのだからその地理的位置関係に生活は左右される。その位置関係が如実に歴史を語っているのだ。つまり歴史は地理だというとき地理がわかれば歴史がわるというとき江戸時代では明確にあてはまる。黒木氏が新地などの境に城をもっていたが一時は伊達氏にとりこまれたというのも地理的必然からそうなっていたのである。
 

丘の北に溜池、蓮池という内堀を兼ねた池を置き、さらにその北側に北三の丸、岡田曲輪、外堀を配置する。北に多重に郭等を配置するのは当然、伊達氏を意識してのことであろう。
http://www7a.biglobe.ne.jp/~ao36/fukusima%20iwaki/souma2.htm

 
この真意はどうなのだろうか?万里長城ならモンゴルの守りとして作られたことは一目瞭然だがこのような小さな城でもそうなのか?その池の前に岡田館があるのだから岡田館が伊達氏から守るために建てられたとなるのか、南側には石垣が残って高低差があるから入りにくいが北側は平地だから池を広くとり防御したともとれる。岡田氏が相馬藩では重要な役割を担っていたことが位置関係から具体的に納得するのである。岡田塁というのもあったから防御のために岡田館が置かれた。小高城から相馬氏が中村に移ったのはそもそも伊達氏に対抗するため守るために移った。その名残として北郷は小高から北にあるからであり北郷となっていた。もし中村に移ったあとなら南郷となっていたのだ。現実に今や逆に相馬市から南だから南相馬市となっているのでもわかる。相馬市を中心として南相馬市になったのである。これは昔に逆戻りした発想である。何故なら原町市はいち早く近代化した街であり明治以降は原町市が中心となって発展していたからである。
 
1591(天正十九)宇多川を境に、宇田南郷18ケ村と宇田北郷18ケ村に分かれていたとき南郷のうちに中村と仲野がみられる。ただし中村は当時の宇多川の北にあったにもかからわず南郷となっている。
(歴史としての相馬−岩本由輝)
 
これも北郷の由来と同じなのである。相馬の城は4ケ月で作られたというから立派な城ではない、防塁的なものであり肝心の城の本体が見えないからだ。中村城で珍しい石壁(石垣)を作ったのは会津の浪人幸田彦左衛門だったという。浪人でも技術をもっていたので技術を売り込んだとなる。会津藩は古いからすでにそうした技術者を有していた。他に会津から木挽きなどが流入しているからこれも技術をもっていたためであろう。絵師などもきて相馬焼きの駒焼きを作らせた。技術は内部より外部から入ってくるのが多いのである。
 
いづれにしろ相馬の街が城跡の堀りを中心に今もある。情緒的にもそうなる、仙台などは青葉城が遠く隔絶されているから今はそうはならない、駅が中心になって発展している。相馬の場合は相馬に行けば必ず城跡の堀りをめぐることになるから城を意識するようになっているのだ。今はこの歴史的位置関係を意識することがむずかしい。街道を来るのではなく電車で来た場合どうしても駅が中心となり駅から街を見てしまうからである。福山城は駅そのものが城になっている。駅と城が一体となっているから印象的なものとして記憶に残されたのである。汽車で旅していたら印象に残るのはやはり駅になるからだ。仙台では広瀬川の橋をわたりそこに五十人町−三百人町−五百人町とかの足軽の住んでいる所を進みさらにまた青葉城までまた橋をわたり進んで行きようやく上り伊達氏の重臣にまみえることになる。その行程は仙台に入ってからも遠い、青葉城は奥の奥なのである。藩主にあうとなると雲の上のような人に合う感覚になるのだ。かしこくも謁見できるという効果がでてくる。青葉城から仙台の街を見下ろした時何ともいえぬ感慨をもったことは確かである。今では計りえない感慨なのである。仙台の青葉城と違い相馬の城跡は街の中心地にあることが大きな相違なのである。
 
城跡の堀りの近くの家なれや螢袋に夕暮るるかな

城跡の堀りに黄菖蒲映えにつつここ行き来して相馬の暮れぬ
posted by 老鶯 at 22:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)
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