2015年08月13日

津波原発事故から4年半過ぎて (お盆のまためぐりて我が心境の短歌30首)



津波原発事故から4年半過ぎて


(お盆のまためぐりて我が心境の短歌30首)

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大熊町に残された手押し車




紫陽花や厨ににあうは女性かな

(墓参り)

五年のはや過ぎなむや姉の墓赤々と映ゆほおづきの花
我が墓地の街中にあり天保の碑知らずありしもひぐらしの鳴く
我が墓地に同級生の墓ありしお盆めぐりてみな老いにけり
あわれかな原町の実家の墓参り年に二度なりまた来るかな
忙しく時は過ぎにきめぐりくるお盆に死者を偲ぶはよしも
我が家の墓の近くに雨しととお盆に参り花をさしにき
戦没者なお偲ぶかも戦友を思う人しも90を越えるかな

(村々のこと)

我が暮らし今日も屋形を通りつつ蝉鳴く声やあわれ暮れにき
のうぜんの花は燃え咲き散りにける我が家に勤めなお暮らすかな
久しくも橲原に行かじ立目石秋となれるや虫の鳴くらむ
土地土地に暮らしのありて思いあり夏も過ぎなむひぐらしの鳴く
大原に老木一つここに住む人も死にけり跡継ぎなしも
鳩原村そこに育ちし人もあれ帰る日あれや墓も淋しき
墓地あれや下栃窪や遠しかな秋の蝉鳴く声聞きつ帰るかな
飯館に一年も行かじ荒れにしや墓参りする人もありなむ
原町にスーパーヒタチとまりつつ動かざるかな五年も過ぎむ
全国の人の来たりて仕事する事故の傷痕消えざりしかも
放置さる避難区域に手押し車誰か使いしや人は住まじも
鹿島にそ小高の人の五年しも住みて長しやひぐらしの鳴く
いつまでや離ればなれになる人のいつ帰りなむ老いゆくものを
人の世はかくも変わらむ津波跡なお残りし庭の樹を見ゆ

(百歳の母)

我が母の百歳すぎて何思ふただいねにつつ齢伸ばしぬ
百歳を生きてなにをか思ふらむただいねにつつ言もなきしも
継母に育てられにし母なれやその一生の労苦のみなり
百歳に大正生まれなお生きぬめまぐるしくも変わりし世かな
90過ぎて家を離れてアパートに住むこともありしその労苦かな
我が家に強き姉しも今はなし故郷に咲く鬼百合の花



津波原発事故からすでに4年半を過ぎようとしている。この間に自分の一身上でもめまぐるしく変わった。七年間介護であり自分の病気であり自分も様々なことに追いまくられた来た相手も良くなかった。相手もまた事業に失敗した、生活がぎりぎりで苦しいとか犯罪にあうとかそのことを延々と書いてきた。
つくづく人生は過酷である。津波で死んだ人も過酷だし原発事故で避難した人もいろいろ言われたが過酷であった。
自分の一身上でも過酷だった。それも自業自得だったともなる
何か嫌な予感はしていたがそれが想像以上に過酷なものとして身にふりかかった。
つまり原発事故も津波もみん想定外のごとだったと同じだった
60以上は人生の総決算みたいなことが起きてくることは確かである。

お盆だから墓参りをした。母の実家の墓参りもした。でも彼岸とお盆しか行っていなかった。それも何か以前として忙しく追われているからである。
結局自分はこの七年間家のことで自分のことで悪戦苦闘してきた
この間誰にも助けられなかった、ただかえって弱者になったとき責められるだけだったのである。人間がいかに非情が身をもって知った。
ただ求めてきたのは金だけだったということである。

そして自分の周辺もまた以前として正常にもどっていない、仮設はそのままだし2000人とか仮設にいる、小高の人は来年帰るというけどこれも延長するとかなると長引く
まず津波原発事故の後遺症は以前として消えることはない
5年過ぎても何ら変わらないということがあるだろう。それほどの大災害だったのである

故郷は何なのかなど考える必要もない、当たり前にあるものだったがこれも住めなくなった時考えるようになった。
故郷の山はありがたきかなとか故郷に住めることはありがたきかなともまでなってしまった。
故郷とは何なのだろうというきそれはそこに住む人の思いが残っている場所である。
それは一代だけではない、何代も前の人々の思いが残った場所なのである。
だから不思議なのは津波の跡の家の庭に残っている樹がまだあるがそれが何か普通の樹とは違う。その家に土地に離れがたく残っている人間のように見えたのである。
自然の樹とも違う、人間化した樹だったのである。

故郷というとき広いからそれぞれの土地に村に思いがある。
橲原(じさばら)だったら立目石とかがあり大原村だったら老木が一本ありあそこで農業して死んだ人を知っている、でもその家は空家になっている
小高の鳩原村に育った人もいて荒れ果てた故郷を悲しんでいた。
それぞれの村には暮らしがあり死んだ人であれ思いが残りそれでお盆には墓参りして
死んだ人をしのぶのである。
だからお盆というのは死者を偲ぶものとしていい風習である。
ただこれは仏教とは何の関係もない、日本的風習なのである。

それにしても避難区域に残された手押し車とか見ると不思議である。
あれ押して老人が往き来していた、それか突然誰もいない街となってしまったのである。あの手押し車でも押していたときそこに暮らしがあったのである。
だからこの辺の状況はまるで映画のようにさえ見えたし今でもそうである。
突然いくつかの町が村が放棄されたためそうなった。
街自体が突然廃墟のようになってしまったのである。
もちろん津波で消えて土台しかなくなった村もいくつもある
そうしうた荒廃した状況が未だにつづいているのである。

自分の母の一生はただ労苦の一生だった。時代といえば時代だが不運といえば不運である運命といえば運命である。人間の一生が様々で何らか苦労がないものはいない
戦争で死んだ人たちも何なのだったかとまた問われる、ただそれも70年過ぎると関心がうすれてゆく、70年は長いからである。
あれほど災禍でもわすれられてゆくのが人間である。
この津波原発事故はまだまだ地元では特に忘れられないし生々しいものとして痛々しいものとしてある。

今年の夏は異常に暑く体力が消耗した。今日は涼しいし雨が降っている
なんかまだ暑さがつづくとなると嫌である。
ともかく五年過ぎて小高の避難者などが帰還すれば元のようになるのか?
以前としてこの辺は五年すぎてもさほど変わっていない
そして自分も延々と家を守ることに悪戦苦闘している
家事というのは実際はいろいろあって知恵も必要である。
そういうのは女性があっていることがつくづくわかった。
厨に台所に立つのは女性があっている、庭に紫陽花が咲いて女性がふさわしかった。
介護も女性の方が何かと向いているのだ。それを全部自分でしているから毎日が追われているのである。


タグ:お盆
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