御影石に碑文新し若葉かな
よしきりと遊ぶ子供と白し雲
影広く遠き深山に夏の蝶
虹追いば海にい出たり船の行く
黒々と工場地帯の蟻の道
山百合や激つひびきに磐かな
溶岩の露に迫り夏の蝶
大倉に古木残りて影涼し
道の辺に南瓜の花や車川
大いなる他郷の山や夏来りぬ
前に作った俳句だけどいいのがない、俳句も選句しないと批評がないと生きてこないだろう。インタ−ネットだと批評とか選句がないから本人でも読む人でも進歩がないだろう。自分のこととか自分の作品のことはわからない場合がある。自分がいいと思っても他人が共感しないとするとやはりいいかどうかわからないのだ。芭蕉の句もインタ−ネットで読むといろんな角度から取り上げるからやっぱり一つ一つがいい句なのである。江戸時代だからその背景も違っているから一つ一つ当時の生活を示していて俳句だけではない歴史とか民俗とかの勉強にも欠かせないのである。ともかくふりかえってみてもいい句がないことは才能がなかった。でもこの年になってそれなりにいい句を作っていると思えるから才能なくても年になればその人なりの句ができるようになる。私の場合、俳句より短歌の方がいいのができていたみたいである。確かなことは芭蕉の句などで感想文を書いたのが我ながら良かった。だから芭蕉についての感想文は持続して読まれていることでもわかる。いい句が作れなくても明らかに年になれば読みが深くなるから批評に向いているし作家になれなくても批評は明らかに一つの重要な文学の分野なのである。批評も創作なのである。編集も創作である。人間は病気になったりそれぞれの人生経験を通じて深い独自の洞察ができるようになる。
シェ−クスピアは実在の人物なのかどうか不明だとか謎が多い、その作品のオリジナル姓も疑われている。
では何がそんなに優れているのか?シェ−クスピアは過去の題材を掘り下げて編集して表現しただけであった。最近の研究では編集者だったという説は納得がいく、独自性より過去にあったものを編集したというのである。編集はそれなりに創作になる。インタ−ネットでも膨大な知識があってもペ−ジペ−ジを読んでも活きてこない、これを自由に編集すれば活きてくる。季語ごとに分類して選んだだけで見えてくるものがある。インタ−ネットは編集して読まないと宝のもち腐れになる。ただなかなか自由に利用できないので問題がある。
そもそも創作といったって必ず過去のもの他者のなにをかを取り入れて書いて切るのだ。だから何かしら編集しているのが創作なのである。