2015年08月06日

土着的なものの喪失して故郷も喪失した (科学や工業が第一とする社会が原発事故をもたらした)



土着的なものが喪失して故郷も喪失した

(科学や工業が第一とする社会が原発事故をもたらした)

●人間のアイディンティティは自然にある


現代文明の特徴は何にアイディンティティをもつかとなると第一次産業が全体の経済の一割ほどに低下したとき土着性も失われたのである。
東京とかでは何にアイディンティティをもつのかとなる。像で思考しろと言ってもその像とは何なのかとなる。
高層ビルを見上げてそれにアイディンティティをもつのかとなる
アイディンティティとは自己同一性とかなるけど自然環境があって人間がある。
自然の恵みがあって人間があるということで自然との自己同一性化するのは自然である。田舎だと農業しなくても周りに田んぼがあり畑があり山があり川があり海がありと一応自然の中で生活しているから自然とのアイディンティティをもつ、
例えば自然とのアイディンティティをもつというとき人間の顔まで山岳民と海洋民とかでは違っていたかもしれない、多様な顔があるときそれは多様な場所で生活していたからでありそれでその場所特有の人種とか文化が生まれた。
人種というとき白人とか黒人とか黄色人種とか見ているけど実際はどういう自然環境で暮らしたかの方が影響が大きい。
遊牧民と農耕民は根本的に暮らし方が違っているからそれは人種より相違が大きいのである。
日本では山彦と海彦が先祖でありそれが神話となるのも自然環境から当然だった。


土着というときそれは故郷というときそれは自然とのアイディンティティを自ずともって生活しているということである。
日本人がなぜ山を神とするようになったのか、それは稲作と深く関係していた。
山から水か絶え間なく供給されて田んぼに水が流れて稲が実るからである。
山はまた貯水の役目があり雨がふらなくても水は山では流れているのである。
こんなに日照りがつづいているから山にも水が流れていないのかと思う
実際は自分が山深く入ってみれときれいな水が流れていて水は供給されている。
今はダムになっているが山自体が貯水の役割がある
葉山信仰というのは高い山ではない、小高い山である、阿武隈の山は低い、そういう山がはやま信仰の対象となっていたのもそれは里山であり人間の生活と田んぼなどで密接に結びついていたからである。
山に祈るということは水を絶やさず恵んで下さいとなる
そして山が先祖が眠るというときそれは一代だけのものではない代々つづくものとして山があり自然がある。
山からもたらされる水というエネルギーは尽きないのである。
大地からもたらされるエネルギーも栄養も尽きることがない
肥料をやるにしてもその基は大地の栄養に頼っている


エネルギーというと石炭であれ石油であれ尽きる、原子力がそれで発明されたがこれも危険なもので失敗した。でも田んぼなら米なら何千年と作られてきたのである。
それは大地のエネルギーとか太陽のエネルギーや水のエネルギーが尽きないからである。それはエジプト文明が三千年も長くつづいたのはそうした自然のエネルギーに頼っていたからである。ナイル川が洪水を定期的に洪水を起こし肥沃な泥を供給して麦などの栄養分となっていたのである。
現代の文明は膨大な消費をしている、それは自然環境に加重な負担を強いているのである石油が百年で枯渇するとかなるとその代わりのエネルギーが必要となる
そのエネルギーを文明に供給するのは石油では限界になり原発が必然的に生み出されたのである。


だから映画では原発を核を信仰していた。
それはこれまで稲作で水を供給する山を信仰していたのとにている。
原子力、核が神になってもおかしくないのである。
現実に今では科学の力が万能のように思われ信仰にすらなっている。
科学にわからないものはない、科学にできないものはない、科学は万能だという信仰にまでなっている。それで医者が神様のように一番尊敬されていることでもわかる。
山を信仰の対象にしたのと同じなのである。
生活に密着して人間は思考するからそうなる。
ただその核を信仰していた人は専門家であり科学者たちだった。その周りの人は関係ないここでも原発とそこに住んでいる人たちは別であり原発にかかわることはただそこで仕事していて金になっても実際は秘密であり知り得ようがないものだったのである。

●土着的思考を喪失したとき原発事故も起きた

土着的思考が失ったというときそもそも田舎でも失っていた。原発が現実に利益をもたらすというとき金になるというとき第一次産業はすでに一割にもみたない生産力しかない
農業や漁業では生活できない、跡継ぎもいないとか別に原発が作られる前からそうっないた。
だから双葉とか大熊とかあの辺は東京に出稼ぎに行っていたから地元で暮らしたいとなり原発を積極的に誘致したのである。大熊に負けずに双葉にも建てろとか競争していた。
つまり原発の周辺は原発に頼り生活するようになっていた。
原発なしでは生活も成り立たない状態になっていたのである。
そもそも原発は土着的なものと遊離したものであり地元の人ととかかわりない所で操作されていたし原子力を理解する人など地元ではいなかったろう。
石炭とか石油ならなんとなく理解できるけど原子力になるともう理解できない
その原発に従事する人たちも東電の社員でもその場所に住んでも農業でも漁業でも関係ないのである。土着するということはないのである。
そこに土着的なものはないというとき、その土地とか自然と遊離したものが原発だったのである。


現代の文明は自然と遊離することで発展した。社会がトヨタの車を生産する会社の部品工場のようになっているというときそうである。
車というものは土着的なものを全く考慮する必要ないのである。他にも電気製品とか工業製品は自然環境を考慮する必要はない。
故郷とか田舎は地方は土着的に生きているというとき周りの自然環境と調和して生きることが強いられていたからである。
鍛冶屋があるというときそれは農家に道具を供給していたのだから鍛冶屋は工業製品を作っていても深くその地域の農業と自然環境の中で活かされていたのである。
鍛冶屋と農民の結びつきは深いのである。
だから鍛冶屋でも何でも土着的に自ずからなっていたのである。その土地土地に融合する技術が工業であった。
今は工業が巨大化して工業の規格に合わせるのが人間であり土地でも田舎でそうなる。
それはもう全体のことを自然環境のことまで考慮する必要がないのである。
その時土着的総合的思考が人間から喪失するのである。
要するに人間が工業製品を作る部品のようになってしまうということである。
そういうことが総合的な土着的思考が欠如することが原発事故にもつながったのである。

●故郷とは代々受け継がれもの

そして故郷は何かというとき故郷とは代々受け継がれてきたものなのである。
それは山や樹や石のことを詩にしたがその自然も樹齢千年の樹とか千歳の石とか山でもそれは一時的なものではない、人間の一代だけにあるものではない、営々とあるものである故郷というときだから先祖と結びついて故郷がある。
それは例えば二代くらいでも親が故郷でどう生きてきたのかとか語られ受け継がれているのである。先祖が生きてまた代が受け継がれてゆくものとして故郷がある。
会社なら百年つづいてもなくなることがある。工業とか商業は永続しにくいからである。だから故郷から離れて避難しても別な土地で根付くことには相当な時間がかかる
故郷とは代々つづいたことに意味がある。祭りでもそうである。代々受け継がれているものとして意味がある。
そういうふうに土着的なものが喪失することが現代に様々な問題をもたらしているのである。

故郷とは空間でもあるがまた代々長い時間で受け継がれたものである。その時間で受け継がれたものが意外と見逃れやすいし理解できない
だから旅行しても国内でも海外でも歴史的なものがなかなか理解しにくいのである。
そこで積み重ねられた時間の重みを知ることがむずかしいのである。
ただ今あるものにだけ目が奪われるからである。
故郷を失うというとその空間ではなく時間で積み重ねられたものも失うのである。
老人は故郷に帰りたいとういうとき老人はその故郷で長い時間を費やしたからそうなる。もはや費やした時間が人生だとなってしまうからである。
他の土地でまた時間を費やすということはもう時間がないのだからできなくなるからである。
そこに若い世代が帰らずに老人と分断されることになった原因がある。

ふるさとの山に向ひて言ふことなし ふるさとの山はありがたきかな 啄木

これは農民がその土地に根付いていたものとは違う。故郷から啄木が離れたというとき
それは放浪であり啄木は農民でもないし生活者でもなかったのである。
ただそれは故郷を離れて東京に出て病気になり死ぬというとき痛切に故郷の風景が浮かんできたのである。
故郷の山はありがたきかなというとき農民的感覚ではない、山がない東京に住んでいて山があることは幸せなことだったとなる。それは生活とは結びついてはいないのである。
またそこに長く住むものの感覚でもないのである。

今テレビドラマを見ていたら面白かった。税務官の話だけど北海道を舞台にしている。
その土地が売られてソーラー発電になるというが実際は外国人に転売されて議員がもうけるという話である。
そこで売らないでくれと頼むとき税務官が畑の土を手ににぎってこの土を耕しこの土からこの野菜を作ってきたんでね、その土地が転売されて金が入れば確かに楽になるけど
こうして耕した土地を売ったらもう野菜は作れませんよとか言っていた。
そこで農業や酪農には跡継ぎがいないとかさんざんその苦労を言って売ったら楽になるとかになると争っていた。
まさにそれは北海道だけではない日本の農業全体の問題だったのである。
この辺では原発でもうけた方がいいとなっていたのである。
漁業は確実にそうなっていた。法外な補償金をもらっていたのである。
結果として漁業も農業も放射能汚染でだめにしてしまった。
北海道は旅していればいいけどそこで農業している人は過酷なのである。
それでライダーハウスで延々と農家の愚痴を聞いていて嫌になった。
その人はもう中国人の方が楽だとかまで言っていたのである。

●自然との新しい調和土着思考を模索する時代

土着というけどその土着が今は一番むずかしくなっているのである。
自分のように花だけを見ていればいいがでは実際にその土地で野菜であれ米であれ作るとなると全く違ったものになる。
現実に八畳二間くらいの広さなのか田一反の半分ないような土地で野菜を作っている人は実りは一くらいしかないのにその苦労は十倍をいつも訴えている
それは前にも書いたけどそれだけ農業は苦労あって実りが少ない仕事だとなる。
要するには現代では金になりにくいのである。
だから田舎ですら土着的思考はなくみんな会社員であり工場とかで働いている。
そういう状態だから原発を積極的に誘致されたのである。
その土にまさに土着であるが思い入れのある人は田舎でも少ないのである。
土着的というとき自分は全体を考慮することで土着的になれということを言った
その全体の思考も自然環境があり第一次産業があって工業があるとなる。
その他に医療とか介護も現代的問題としてある。


いづれにしろ土着的思考というと江戸時代なのかとか何か田舎ですらなくなっている
自分は山とか樹とか石を詩にしたりしてきたがそれはあくまで現実の生活としての土着ではない、実際はもう工業化とか現代的なものを田舎だって否定できない
第一車を田舎では一人一台もっている、一人で二台もっている人もいる。
運搬用に軽トラをもっている人はが田舎では多いからである。
ただ土着的なものから遊離してゆくと今回のような原発事故が起きたり土地が転売されて一時的に金が入っても農業は廃れてつづかず荒廃する。
つまり原発事故周辺のように人の住まない地域にすらなってしまうということである。
その危険性は原発だけではない、農業自体が衰退して捨てられてしまうということであるでは三野混沌のような人になれといったらあまりにも過酷であり山尾三省は豊かな現代でそういう生活をしたがそんなことをしようとする人はパンも食べられないとか生活する人は誰も受け入れられない、テレビでそうした貧乏を放送するがそれはあくまで放送用であり現実はできない、またそこまでする必要もないのである。
要するに工業だって否定できない、ただその中にどうしても土着的思考があるべきなのである。
それは新しい土着思考である。そういうものを模索してゆくということである。
芸術はこれも土着なくしてありえないのである。
宗教だってそうであり哲学だってそうである。なぜカルト宗教がこれほど増えるのかというとこれはあくまで文明の病理的現象であり宗教とは何の関係もないのである。
オウムがまさにそうだったし創価も都会の宗教なのである。
健全な宗教は自然と調和したものなのである。自然と調和したときそこに荘厳なものが生まれるのである。ルネサンスが生まれるのである。

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小高の鳩原村の懸(かけ)の森で見たゼンマイの写真を加工した
芸術も土着的なものから離れありえないのである。
鳩原村は山際であり放射線量が高いからもう人は住まないという人もいた
そうなると継続された歴史とかも失われる
それが大きな損失だということを今は気づかないのかもしれない
補償金をもらって暮らした方がいいというのはまさにもう原発事故が起きなくてもそういう状態にあったからだということにもなる






タグ:土着の思想
posted by 老鶯 at 22:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連
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