2006年10月29日

生活に活きていた蔵の話(蔵の俳句など)

倉敷や白壁に春の夕日かな

倉のひまより見ゆ春の月

(野村)朱燐洞

蔵というと喜多方が宣伝しているが本家は倉敷になる。ここもずいぶん前だけど行ったが本当に蔵だらけの街だった。蔵がせめぎあうように密集していたのだ。南の方は商家でも規模が違う、倉敷の栄いは相当なものだった。倉敷格子などがあるのもはじめてしった。昔の状態がかなり大規模に残されているから確かに昔を偲ぶのには良い、まさに倉敷こそ蔵の街だった。裏道でも蔵が辻になり蔵の間を行き来することになるのだ。喜多方は蔵の街と言っても点々とあり本当にどこが蔵の街とかなる。規模が小さいし蔵の通りなどないから倉敷とはあまりに規模が違うとなる。俳句の倉のひまというのは倉の間からのぞく春の月となる。これも倉が本当に利用されて活きていた時代の句なのだ。俳句でも過去の回想だけでは俳句にならない、生活が活きていないと芸術も活きてこない、当時の活気があってこそ春の月も活きてくるのだ。蔵で面白いと思った童謡を発見した。

黄金虫(こがねむし)

黄金虫は 金持ちだ
金蔵建てた 蔵建てた
飴屋で水飴 買って来た

黄金虫は 金持ちだ
金蔵建てた 蔵建てた
子供に水飴 なめさせた

野口雨情


大きな商家の蔵には壱の蔵、弐の蔵、参の蔵とかあった。、「日本永代蔵」なども蔵が題名になっている。蔵は金持ちの証拠だった。今では銀行に金をあづけているが昔は蔵を建てることが金持ちの証拠だったのだ。だから喜多方でも蔵を建てることを競ったのである。立派な蔵を建てれば成功者として誇示できたのである。そして蔵にはお宝がしまってあった。今でもそれが骨董として高い価値があるものがでてきたり古文書がでてきたりする。蔵は実用的なものであり飾りではない、防火にも役立ったのだ。その蔵が観光用の見せ物となったとき蔵も死んでしまったのだ。どんなものでも活きて使われないものは骨董品となって魅力を失うのである。

長谷川時雨 旧聞日本橋219 西川小りん10http://nowhere47.no-blog.jp/ultrapeace15/



その祖母が女のたしなみを、いかにも簡明に女中たちにも、子供たちにも共通にはなしてきかせるのだ。その中で、あんぽんたんの耳に残っているのは、祖父が蔵を建てようといった時に一戸前(ひととまえ)の金が出来たからと悦(よろこ)んでいったのを、

「も一戸前分の金が出来てからになさい。」
と祖母はいった。自分たちの働きの成績を、一日も早く、黒塗りの土蔵にして眺めたいと願っていた祖父は、明らかによろこばなかった。
 二戸前(ふたとまえ)分の金が集まった時に、祖母はまたいった。
「も一戸前分出来たらにしましょう。」
 さすが温順な祖父も、なぜだと訳をきかないうちは承知しなかった。
「ものは、思っていたより倍かかるものです。まして、長く残そうと思う土蔵(くら)を、金がかかりすぎるからといって、途中で手をぬくようなことがあるといけないから、どうしても二ツ建てるだけの用意をしておかないとちゃんとしたものが出来ますまい。」

 それは理由のある理窟だから、祖父は頷(うなず)いた。けれど、三戸前(みとまえ)分なければというのには不服だった。
「それがなぜ、もう一ツ分入るのだ。」
「では、万一、蔵の出来かかった時に天災が来たらどうします。土蔵(くら)は出来ましたが、蔵に入れる何にもなくって人手に渡しますとは、まさか言えますまい。」
 なるほどと思った祖父はうなった。現今(いま)のように金融機関のそなわらない時代のことである。空手(くうしゅ)で、他人(ひと)の助力(たすけ)をかりずに働かなければならないものには、それほど手固い用意も必用だったであろうが、その場合の祖母の意見は、もうここまで来たという祖父の気のゆるみを、見通していたものと私は考える


蔵に対する考え方が今ではわからなくなったが実用として使うのには蔵の役目は大きかったのだ。蔵があるということは実際目に見えてわかるから立派な蔵があるということでこの家には金があるとわかるから泥棒にもねらわれた。今は金は実際は金の延べ棒でも小判でもないから金に対する実感がない、紙幣だってうすっぺらな紙幣にすぎないからだ。それで認知症になると銀行に金があることがわからないのは金が小判でもないし紙幣でもない通帳の数字になっているから認知症になると銀行に金があることさえわからなくなってしまうのだ。この古い蔵に雛人形が納まっていてそれを長男が受け継ぐことになっている。そんな俳句を鑑賞したがホ−ムペ−ジでは検索できないのでわからなくなった。

京都は手工業と公家の町である。山形県の村山郡で摘み取られた紅花は餅状にして出して運んだのが大阪の廻船問屋と紅商人でこれを京都にもっていって加工した。京都の紅屋が加工に一番優れていた。生産地は山形の田舎で積み出し港が酒田などになり運んだのは大阪商人であり加工したのが京都人である。この紅花は高価なもので「紅一匁(もんめ)金一匁」と言われた。作るのにも手間がかかる。帰りに京都の物産を積んで商人は栄えた。山形の村山市や宮城県の村田町では京都から雛人形がもたらされ飾るのが行事になった。

雛古りぬ京を偲べる昔かな(自作)

難波−交野−近江(志賀の歴史)
http://www.musubu.jp/hyoronoosaka.htm

この雛人形は蔵に納められて大事に代々引き継がれたのだ。宮城県にも山形県にも蔵の街として観光で売り出している町がある。そもそも蔵はいたるところにあり蔵はどこにでもあった。商家だけではない農家にも今でも蔵は残っているが何か骨董品とか昔の遺品みたいなものが保存されている博物館のようになっている。蔵は今は死んでいる、現実生活には活かされていないのだ。だから蔵は昔を偲ぶものとしてあるだけになってしまう。蔵に関する物語は相当ありインタ−ネットで調べ編集すると蔵をキ-ワ-ドとした蔵ワ−ルドが作られる。この文はその一部にすぎないのだ。

参考

喜多方は新しい街だった(明治維新で興隆した街)
http://musubu.jp/jijimondai18.htm#kitakata

posted by 老鶯 at 22:51 | TrackBack(0) | 評論鑑賞(本サイトリンク)
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