2008年06月12日

葛尾村(落合)の明暦と元禄と記された石碑の謎

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葛尾村(落合)の明暦と元禄と記された石碑の謎
 

松本家の祖は時の左大臣藤原魚名(721〜783)の末裔で、信州葛尾城主の系譜で、松本勘ヶ由助親家は村上氏の圧迫により奥州に逃れてきたものといわれております。
 親家の嫡男親照が大永初年の頃相馬顕胤公に仕え、田村の境目押しとして落合村の奥地を与えられ(故郷信州の葛尾に因んでこの地を「かつらお」と名付けたと考えられます)


葛尾城は村上氏が武田との戦いで落城したことで有名である。その前に松本家は村上氏に追われたことになる。ではなぜ阿武隈の奥地までやってきたのか?戦国時代は移動が激しかった。またまだ領地とされる地域が確定されていないから逃れて住む場所もあった。葛尾は三春藩と相馬藩の境目にありどちらの領地とも定められない所だった。相馬藩は三春藩から守るために落合を与えた。落合はだから葛尾の要所であった。昔は戦国時代は絶えず防衛が一番大事であった。敵にいかに攻められないか、敵から自国を守るかが最大の問題だった。相馬藩はもともと小高に城があったがのちに中村(相馬市)に移したのは新地が伊達氏と興亡の境でありまた丸森も金山城が一時は相馬氏の出城であったように伊達氏との境界となっていたため中村(相馬)に城を移したのである。黒木氏が一時伊達氏側について田中城を攻めたのも丸森に近いところにあり地理的な要因として伊達氏にとりこまれた。地政学的戦略が常に作用していたのである。化葛尾村で一番古い場所は落合となる。ここはおさえておく必要がある。今の葛尾村の役場のあるところではない、落合になる。
 
相馬領(現在の大字上野川、野川、落合)と三春領(大字葛尾)になりました。明治4年に戸長制度となり、区会所行政下では富岡町第24区、明治16年の役場制度下では下津島とともに同一行政区となり、明治22年町村制度が実施され、上野川、野川、落合、葛尾の4ケ村が合併し葛尾村となりました。その後、津島村と合併して津島葛尾組合村が誕生しましたが、大正12年に両村が分離して葛尾村として発足し現在に至っています。
 
上野川−野川−落合がもともと相馬領であり三春領は別だった。津島も三春領だった。野川は二つの地域に別れているのだから葛尾村でも大きな領域である。野川では寛文 1(1661−1672)に新田、新開の検地が行われている。ここに新田が作られた。野川の六良田A遺跡からは縄文時代の遺跡や鉄炉も発見されているから葛尾では古くから人が住んだ場所である。六良とは次郎田とか三郎田、四郎田、五郎田、六郎田、・・・・とかあり名前であり長男は家を継いだがその他は新開地を求めて新田を開いたのでその名がついた。山で暮らすにはやはり土地が必要なのである。ネパ−ルでは信じられないような高い所に家がある。不便なところに土地を求め家を建てるほか住む場所がない、山に住む場所がなくなれば町におりてくるほかないのだ。その前に出作り小屋を建て仮住まいして畑を作ったりして仮住まいしていたのが住居となる。小出谷がそうである。つまり小出谷とは小出屋であった。ここが私の父方の出た所であり因縁深い場所だった。その実家の人は浪江に移ったのでその家はなくなった。父から昔の話を聞かなかったので祖父の話を聞いていないのでどういうことでそこに住んだのかわからなくなっている。ただ落合が葛尾の中心地でありそこから小出谷の方へ耕作地を広げていったことは確かである。さらに系譜をたどると葛尾の松本家が祖先につながっているかもしれない、落合までは浪江から森林鉄道が通っていた。高瀬川沿いをここまで上ってきたのかと驚く、木材を出していた時は結構活気があった。
 
この碑は何を意味しているのか、明暦と刻まれているから明暦に碑が建てられ次に元禄にまた同じ碑に年号が刻まれた。その間の寛文に野川での新田の検地が行われた。これは落合付近にあったから昔からの古い墓地だった。「為道善知・・・」善を知り道をなす・・」なのかこれは僧侶の墓なのか、信仰として建てられた石碑なのかわかりにくい、資料もないので今は解明できない、ただ時代的には確定されるものがあった。明暦−寛文−元禄とここは葛尾村の中心地で人々が集まり住んでいたのである。
 

明暦 1-1655
明暦 4-1658
寛文1-1661-1672
元禄2-1689
元禄17-1704

 

野川−落合の地図
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?meshcode=56402605

posted by 老鶯 at 21:41| Comment(2) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)
この記事へのコメント
元禄の碑を見て驚きました。
これは母方の実家の墓地です。
私は歴史が好きで母方の実家の祖先を調べていましたが、志し半ばで原発事故に襲われ当面は叶わぬものとなっています。
相馬家の臣であったらしく、相馬義胤から拝領した柊が庭にはありました。
今後、情報交換など出来たら幸いです。
Posted by マロ at 2012年01月13日 21:57

>相馬義胤から拝領した柊が庭にはありました

本当ですか?伊達政宗の生きている時代の人ですね
葛尾(かつろう)村に元禄の碑があったことは
発見でした。
元禄時代のものは相馬藩内でそんなにないでしょう
あそこになぜあったのか不思議である
明暦と元禄と一つの碑に書いてあることも謎である。

「為道善知・・・」は仏教ではなく儒教関係なのかもしれない・・・

あの辺は磐城とか三春とかの境界争いがあった
碑の文字がどうも解せない

葛尾(かつろう)村は自分の父親の出身地であり
柏原から小出谷へ出て双葉の新山の酒屋に
丁稚奉公に出たことは書きました。

葛尾(かつろう)村は因縁ある場所です
あの碑が気になっていたがそれ以上調べることが
できなかった
でもあの碑はかなり歴史的には重要な手がかりとなる碑でしょう

磐城落合とかの地名があり葛尾(かつろう)村でも
相当に高い場所でしたよ

三春藩に近い所、境界に接する所でした





Posted by プログ主(小林) at 2012年01月16日 16:27
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