2008年06月05日

本はそれぞれ深刻な問題意識をもつことから選べ(「脳がさえる15の習慣」−築山節を読んで)


本はそれぞれ深刻な問題意識をもつことから選べ

(「脳がさえる15の習慣」−築山節を読んで)
 

●本を選ぶのはランキングに頼るな、問題意識をもって探せ
 
この本の要点はぱらぱらとめくっただけで即座にわかった。文庫くらいだとすぐに要点がつかめる。読書とはクロ−ズアップ現代でやっていたランキングに頼ることほど馬鹿げていることはない、それも結局マスコミの情報操作だった、みんな買っているから買う、何がいいかわからないから買う、そういうものはたいがい何も残らない、昔のベストセラ−と同じである。世の中はつくづく変わらない、要するにたまにしか本を買わない人に買わせるための本はその場しのぎに出版社がもうける本なのである。そういう姿勢だと出版社と書店はいづれは消える、事実売れないからエロ本だけ置いている中小書店があったりとそういうのにふさわしかったからそうなったのだろう。本の世界もインタ−ネットなどがでてきて変わりすぎた。情報分野は余りにも変わりすぎたのだ。私の本の買い方は私自身作る文章の文脈のなかでこんな本があったのかこれを読んでさらに深い洞察の文を書こうとしてアマゾンから買うようになった。その中には読んでいないのが多かった。何がいい本かというとき過去には調べようがなかったのだ。また即座にそうした本も地方では手に入れることができなかったのだ。でも本こうして買っているとまた本ばかりたまって困ってしまった。今や本を読むのも限界になった。過去に買った本も読んでいないのにもう読めないのである。
 
認知症にかかわってから脳のことをいろいろ考えるようになり書いてきた。認知症は何なのか?そういう問題意識が深刻に私のなかに提起されたのだ。本を読むという時、こうした深刻な問題意識をもつことである。その問題解決のために情報を集めるからだ。本もその一つである。病気になればその病気についての情報を集める、それぞれの問題意識から情報、本を集めればランキングに頼る必要はない、問題意識をもたない人はただ暇つぶしに漠然と情報の海をさまようだけになってしまうのだ。なぜこの本が即座に理解したかというと同じ問題意識から書いていたからである。なぜ認知症になるのか?それはわからないにしても一つの手がかりとして具体的に提起していたからだ。
 
●家事をしろ、怠けないで整理しろ、物の整理は思考の整理に通じている・・・
 
ここに盛んに整理しろ・・・整理しろ・・・・と書いてある。私が認知症と接して不思議だったのは認知症とは整理できなくなる病気なのである。極端な話がパンツを冷蔵庫に入れておくようなこともする。下駄箱に野菜を入れておくとか、金は十個くらいのサイフに分散していれるとか、箱と箱の隙間に札を隠しておくとか、普通の人はそんなことを絶対にしない、整理する思考が全くできなくなるのだ。それは前頭葉と関係している。ゴミ屋敷の人も認知症の場合がある。ただもったいなくて投げないのではなく頭の中で物を整理できなくなるからただ雑然とあらゆるものを積み重ねるだけになってしまうのだ。普通の人は下駄箱にリンゴを置いたりしない、下駄箱には靴をおくものであり下駄箱と靴は一体のものである。テ−ブルと椅子が一体としてあるのと同じである。前頭葉が働かなくなり思考の整理ができなくなるからそうなるのだ。だから家事をすることは自分もやってみて整理することが多いのが家事だった。食料でも分けて冷蔵庫に整理しなければならないし調味料から様々な細かいものを使いやすいように整理するのが仕事なのである。だから家事を一生懸命している人は認知症にならないかもしれない、事実、私の家では公務員をやめてから家事もしないから認知症になったのかもしれない、グ−タラぼけというのがあり公務員がボケになりやすいというとき退職すると簡単な整理すらめんどうくさくてしなくなる傾向がでてくるのだ。なぜならそれで仕事ができなくなるわけでもないからである。仕事している時やはりこまめにいやでも整理するからである。
 
認知症になるとまず整理ができなくなる、料理ができなくなる、金の計算ができなくなる、書類がわからず文章が書けない読めなくなる。つまり抽象的作業ができなくなるのだ。これはやはり前頭葉と関係している。不思議に洗濯と掃除と洗い物はできたのである。これは整理することも頭をそれほど使うこともないからである。洗濯は洗濯機が使えないから手で洗っていたのである。認知症になると機械の操作もできなくなるのだ。認知症は明らかに前頭葉が退化したようになり機能しなくなったことは言えるのだろう。ともかく趣味も何にもない、金の計算をして商売して家事を90まできっちりと毎日していた人は認知症にならなかった。いかに家事をきっちりできることが大事か家事がいかに頭を使う整理することが必要なものか自分で実際にしてみてわかったのである。なぜなら一つくらい用意するのを忘れる。全部を忘れずに整理してそろえることができない、今もできないのである。家事は特に料理は相当に頭を使うから料理はまず最初からできなくなる。ただ習慣的に魚をさばくことができてもそれを料理することはできない、いろいろな味付けとかとくにむずかしいのだ。油を使うことさえできないのだ。
 
●整理分類しただけで見えてくるものがある
 
人間は情報を整理すると分類したりすると思考しなくても創造しなくても自ずと見えてくるものがある。麦と米の問題で書いたようにまず麦という全国の地名を一覧化していた人がいた。次に芭蕉の麦の俳句を集めた。麦飯を食った体験もありこれだけで麦の世界が過去から今まで見えてきたものがあった。キ-ワ-ドで麦について調べることは分類したり整理することだけでわかることがかなりあるのだ。だから日頃から物を整理することを怠るなというのは一面の真理である。そういう自分は物を整理していないのも矛盾している。物の整理は本の整理でも絶えずしていないとだめである。本の重要性も変わってくるからである。情報にしても無限であり新たな問題も提起される。地名の探求をしているが学問も整理分類が基本になる。同じもの木がついている地名、土がついている地名、田がついている地名、麦がついている地名と・・・・無限に分類すればそれだけで学問になる。整理しただけでひらめくものもある。なぜ人は感情的なものに訴えると賛同者をふやすことができるのか?これも前頭葉を使わないで考えることがないので楽だからである。あいつが憎いとか悪いとかやっつけろというのはわかりやすいのである。でも現実はそう簡単なものはこの世にはない、理性的になれば真実はどこにあるのか、簡単に結論づけられない、後期高齢者の年金から税金とること許すな、自民党の悪政をたたきつぶせとかなるがこれも感情論だけでは解決つかないものがある。でも年金からとられることはみんないやなのでとにかく感情的に老人いじめはやめろで同調する。それが本当に悪いにしても人間は簡単なもの感情的なものに動かされやすいのである。

 
seirinou22.jpg
 
整理された脳
 


 

 
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