2006年10月27日

町屋の意味(江戸時代の俳句)

御主殿ができて町屋は片はずし

徳川家から前田家(加賀藩)に嫁いだ時、建てられたのが東大の赤門になっている、御主殿門と言われていたものである。あそこに加賀藩の屋敷があった。その前には町屋があったのだが半分を取り壊したという。火事になるからという理由だった。これでわかることは江戸が火事が多いということなのだ。それから荒川線の都電にも町屋駅というのがある。
町屋とは大名屋敷と区別して町の人が住む所が町屋となった。この句は町屋に住むものから見た皮肉的な川柳である。町屋は簡単に半分取り壊しになるという当時の町屋の人が軽くあしらわれることをこの句は言っている。
「今度徳川家の松平から嫁いでくる、前の町屋は密集している、火事になると大変だ、江戸の火事は怖い、半分取り壊して延焼を防ぐ必要あるな
「町屋の人達が怒るんでは」
「町屋のものが、江戸は町屋のためにあるんじゃない、侍のためにあるんじゃ大名屋敷の方が大事なんだよ」
「そうでございますな、町屋の言い分など聞く必要がありませんな」
町屋というとき町屋に住む人が言ったのではなく大名屋敷に住む人が町屋と言って区別していたのだ。侍から見て町屋は下々の住む蔑視的な呼び名だったのだ。江戸にとにかく大名屋敷が多かった。それが今では一つも残っていないという不思議である。辛うじて名前が残っているがそれも面影を偲ぶような場所ではない、ビルが林立しているから全く昔のことはわからなくなっているのだ、だから東京で昔を偲ぶということがむずかしいのである。

この嫁いだ姫は30何番目かの子供の一人だったというのもあきれる。盛大なお輿入れが行われたのだ。こうした江戸幕府が300年つづいて明治維新にもろくも崩れさった。なぜこれをとりあげたかというと地名に自分は興味あるからだ。地名は歴史なのだ。大名屋敷はなくなったが町屋という地名は殘りあとに残ったのは町屋というかビジネス街や商店街である。町屋という地名を考える時、それと対照的に大名屋敷を常に頭に浮かべる必要があるのだ
俳句も短いからこうして歴史的背景を知らないと理解が深まらないのだ。だからこうして説明することが必要になっている。


現在も東京大学の通用門として使われているが、元は加賀藩前田家の上屋敷の門のひとつで、十一代将軍徳川家斉の息女、溶姫(やすひめ)が文政10年(1827)、前田家(斉泰)に輿入れするにあたり建造された。(建立 1828年)前田家は三位の格式があり、将軍家から奥方を迎える場合、朱塗りの門を建てるのが慣例で、「御守殿門」が正式名称

俳句で綴る、東京詩情探訪http://www5a.biglobe.ne.jp/~tenti/

これは読みごたえある。江戸情緒も偲ぶことができる。蕪村の俳句批評も優れている。これでわかることはいかに俳句というものがその人の読みと関係しているかわかるのだ。短いからその背景を読めないとわからないのだ。江戸時代の俳句は特に歴史がわからないと読めないのだ。中国の歴史をあれだけ読めて蕪村の句がわかったのだろう。江戸時代の人の方が中国の歴史に詳しかったというのも不思議である。今の人は中国に行っても歴史を深く知って理解している人は少ないように思う。


posted by 老鶯 at 13:11 | TrackBack(0) | 評論鑑賞(本サイトリンク)
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