2006年10月25日

廃駅で待っているおばあさん(小話)

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廃駅で待っているおばあさん

あの廃駅で一人のばあさんが誰か待っている。何か茫然として悄然として待っている。そこにはもう線路もない、ただ駅舎が残りプラットホ−ムが残っている。誰を待っているのだろう。やはり息子とか娘かもしれないしよく戦友のことを語っていたからその生死を共にした仲間かもしれない、従軍看護婦として4年間も南方で苦労したからそのことを忘れずに語っているからである。このばあさんは実は認知症になっていたのだ。家では手紙も書けなくなっていた。ただ電話に出ることはできた。それで電話がきたときうれしそうに話していた。

「ああ、今日も待っていたけど来ないな、どうしたんだろう、昔は一杯人がきたのに、誰もここには来ないのか、汽車が来ないな淋しい・・・・・・」
「ええ、汽車ですか、汽車じゃないでしょう、今は電車ですよ」
「汽車ですよ、煙を吐いて蒸気機関車が来ますよ」
「そういう時代の人でしたか・・・・」
そのばしさんに誰かが若い者が言ったみたいだ。でも老婆は今日も誰かが来るのをここで幽霊のように待っているのだ。
ある老婆はまだ戦地に行って帰らない息子を待っている。本当にロシアに生きていた人もいたからまだまだ戦争は記憶から消えないのだ。様々な思いが駅にはあったのである。

秋風がぷ−と吹き取り残された駅舎に吹きつける。がたがたと音がして駅舎には駅員も誰もいない、まるで骸骨のようになってしまった。わびしい限りの駅舎である。それでもなんとか昔のままにまだ残っている。でもやがて他の駅舎のようにこれも取り壊されるだろう。するとここに駅があったということも忘れられる。ここに立っていつも待っていた老婆の姿も見れなくなる。その時ばあさんは墓場に入ってしまっているだろう。

その線路のない駅舎にはやがて木枯らしが吹き落葉がたまる。虫の音もかすかにただ昔を語るのみだ。つくづく人間とは淋しいものだ。その終末はみんな淋しいものだ。どんな金持ちでも地位があってもたいしてその終末は変わりない、人間の最後はみんなにている。華やかな青春とか盛りの時代はたちまちすぎて残されたのはこの廃駅のわびしい姿、美も色あせたしわくちゃの老婆の姿だ。それが人間の最後の真実の隠すことのできない姿だ。認知症になったら特にあわれだ。過去の脱け殻のように過去を幽霊のように本当に徘徊してさまようことになる。死んだ人から電話がきて話ししたり過去を生きるようになるのだ。現在より過去が現実となる。

そして目印しになるのは昔からあった近くのの枯木一本である。新しくなった街並みは何か別世界でありなじめない、人もまるっきり変わり見慣れぬ人ばかり現在の記憶は煙のように消えてゆくだけなのだ。人の顔も何も覚えることができない、金の計算もできない、金があっても銀行から金がおろせない、銀行に行って現物を小判のように見ないと金があるということがわからないのだろう。

人間その最後は淋しいものだ。人間にはみな同じような淋しい最後が待っている。華やかなときはたちまちすぎて人生の黄昏がやってくる。老人の淋しい心を知るのも必要だ。それは誰にでも来る淋しい最後の日々なのだから今はそれを感じなくても最後にはみんなそうなる。それが人生の真実の姿なのだ。
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黄昏の線路
Excerpt: 小田急線の線路が、夕日に光り輝いていたので、そこで一枚撮りました。黄金色に輝く線路も、美しく思えます。今日もこの線路の上の、多数の電車と人を乗せて、走っています。
Weblog: マイ・つるかわ・生活〜鶴川住人日記、東京近郊おでかけメモ、キャンプのメモ
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