2006年10月25日

老人の淋しさ(廃駅の写真)

stationold1.jpg

この写真はどこからコピ−したかわからなくなった。どうしてもこの写真が必要なのでのせた。著作権問題があるがこの写真がないと文も生きて来ないからのせた。他にも廃駅の写真はあるから参考になるのが多い。この写真の主の抗議がきたらとりのぞくのでよろしく。

人間はつとめて記憶させないと記憶ができなくなる。人間は忘れやすいのだ。旅でも忘れることが多い、特に車とか団体の旅は旅の記憶が残りにくい、団体だと集団行動になるから景色を記憶に留めることもむずかしくなる。車は途中をぬかしてしまうので旅の記憶が残りにくい、電車も途中を飛ばしてしまうので残りにくい、やはり自転車とかで苦労して坂を上り下りしたり長い距離を行くと記憶に残ることになる。体で無意識の内に記憶に残すのだ。人間はやはり記憶が大事だ。認知症は記憶できないから深刻である。

今度のパソコンは一つのフォルダがスライド−ショ−になる。何も操作しないときスライドショ−になり写真が次々に写し出される。その中に廃駅となった写真が出てきたのを何度も見ている。フラットホ−ムは残り駅舎も残っているのだが線路はなくなっている。駅舎が残っているのだからまだ廃線になってからそんなにたってはいない。この写真を見るたびに電車が来ていた当時が思い出されるし電車が来ない淋しさをまざまざと感じる。俳句にすれば

線路なく駅舎残りて秋の暮

とかなるがこれも写生ではないからいい句とはいえない、その場に立てばいろいろな思いがそこから生まれてくる。虫の声、風、落葉・・・こうした中にそこから昔がイメ−ジされてくる。現代はデジカメで写真の時代になった。膨大な写真がインタ−ネットにはある。それぞれの写真が何かを語っている。写俳などという分野もでてくるのもわかる。人間は今だけではない、昔を思い出すことがつとめとして必要なのだ。歴史を学ぶとは昔を再現することである。江戸時代でもそうだし昔を思い出すことによって今だけではない長い時間の中で生きることになるのだ。

ともかく駅舎だけの写真は何度見ても心に残る。それは駅や電車などありふれた光景なのだがそのありふれた光景が一瞬喪失して過去のものとなり時が止まってしまった。そこに無情感を覚えたのだ。認知症の人や老人の淋しさもこの廃駅に通じていたのだ。電車が来ない、乗り降りする人々がやってこない駅舎なのだ。ただわずかに昔の友や血縁につながる人がやってきて昔の華やかなにぎやかな日を語り帰ってゆくのだ。

事実は老人になると交遊が絶えてしまう。親戚関係すら絶えてしまう、仲間で死んでゆく人も多いからただそこにはこの廃駅のような喪失感だけが残される。認知症になったら手紙も書けないから遠くの人との交遊も絶えてしまうのだ。考えて見れば淋しさ限りないとなる。ただその廃駅にはにぎやかなときの思い出だけが残されている。実際は一人の老婆が昔の友や息子や娘や知己を待っている、認知症の人は特にそうなっているのだ。老いるとはかくも淋しいものだということがこの廃駅の写真を見るたびに思う。このスライドショ−は何度も見るから記憶されやすいし記憶を呼び起こすから記憶するにはいい方法である。人間はともかく忘れやすいからこうしたことでつとめて記憶するよう心がける必要があるのだ。
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