2008年05月22日

夏の日(鯉のむれ)

 
夏の日や一匹大きく鯉のむれ

ふりむけば藤の咲くかな我が知らじ行き来す道や今日も暮れにき

一本の松影静か旧き道藤の花垂れ我が寄れるかも

そを知れる人もなしかもひそけさや白き菖蒲を今日も見るかな

池に鯉の群れが毎日泳いでいる。その中には小さな子供の鯉もいる、その中に一匹大きな鯉がゆうゆうと泳いでいる。その鯉を中心に群れが形成されているようだ。その大きな鯉にひきつられるように他の鯉も泳いでいるのだ。それが見ていていかにも生き生きしている。人間もこうした群れの中心になるべきものが必要だ。この大きな鯉は英雄とか天才とか天来のものを持った人となる。そうでなくてもやはり指導的なものをもつ人である。現代は平等化だからそういう傑出した人は否定される。それがかえって世の中をつまらないものにしているのだ。そういう群れを統率するようなものがいなくなれば野生では生存もできなくなるように人間にも必要なのである。まあ、野生ではこうして何でも調和してくるが人間は不調和がつきものであり不自然がつきものでありそれが人間を醜くしているのだ。つまりかえって長たるべきものが長にならないのが世の中である。それが結局下のものまで甚大な影響を及ぼす、指導者がだめならそれに従うものも犠牲を強いられるからだ。それが戦争の犠牲者だったのだ。無能な指導者によって死に追いやられたのである。
 
また、「色合い深く花ぶさ長く咲きたる藤の松にかかりたる」(枕草子)、「松に藤の咲きかかる」(源氏物語)松に藤はにあっていた。人間は毎日通っていても気づかないものがつくづくある。一本の松があることはわかっていたがふりむいたらそこに藤の花が垂れていた。藤の花は咲いているのが多いから他の藤は見ていたがふりむいたらそこに咲いていた藤には気づかなかった。こうして気づかないことがいくらでもある。人間は目立ったものに気をとられやすいのだ。花も多様であり白は清純なイメ−ジだからひかれるものがあるのだろう。情熱的な人は赤い花にひかれる。自然も個性によって見えるものが違ってくる。みんな一様に見ていたらつまらない、そこに個性の意味があるのだ。
 
パソコンはアダプタ−の電源の故障だった。交換したら直った。このパソコンはビデオ編集などには使わないしいろいろめんどうなことはしていないから簡単にパソコンが故障するとは思わなかった。DREAMSYSというとあまりなじみがないからサポ−トが問題があると思ったが電話で連絡したらすぐ故障原因がわかった。それでもハ−ドデスクが壊れる事故はありパソコンは危険である。古くなるとやはりパソコンに不具合ができやすいのだ。販売店に連絡せず直接メ−カ−とやりとりできたからかえって便利だった。販売店を通すと金も多くとられるし売る方も買う方も損になる。もう一台のパソコンが稼働していたのでできた。電話は光電話だから全国一律の電話料になった。何か通信面では便利になる。田舎でもそんなに情報とかで遅れをとることもないし発信もできる。通信面では田舎と都会の区別はなく対等になっているからここにビジネスチャンスが生まれる。通信販売では全国同じ条件なのかもしれない、ただ現物は東京に集積しているのだから違っている。そもそもitを商売に結びつけたりどう利用していいのかはまだ模索中である。
 
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