濁流や嵐のあとに夏雲雀
穏やかに咲くもならじも藤の花嵐のあとや吹き散らされぬ
白つつじ藤の花映え公園に今日は人来ず我一人かな
ここは嵐はすぎさった。たいして雨もふらず過ぎ去った。でも川は濁流になっていた。
公園の藤の花もどうなったかとたずねてみたらほとんど散っていた。藤の花もいつも穏やかに咲くわけにはいかない、必ず波瀾がある。人生は波瀾である。三十年平和でも必ず波瀾がやってくる。今や神社で子供が遊んだりしない、少ない子供が時々公園にたむろして遊んでいるだけである。群がって遊ぶ姿は消えた。インタ-ネットはリアルタイムの報告の時、力を発する。嵐は今は日本全国で同時に見舞われている。そして場所により報告がある。リアルタイムのその時々の変化が即座に報告できる。だから時間も記録されている。一日でも一日の回想を夜までして今日の内にアップするのがプログである。生々しいその時のことが発信される。自ら事件に遭遇したときなども力を発揮する。時間が経つとその時の生々しい体験は忘れてゆくからだ。回想することはまた別な作業なのである。回想は編集でもある。いろいろなばらばらな記憶を一つの脈絡ある文として編集するのである。だからリアルタイムの報告とは違ったものとなる。