人行かぬ林道の奥黒揚羽
夏の日や水車の回る夕蛙
老鴬や我が押してゆく車椅子
車椅子押して道の辺白菖蒲
車椅子に遠出をしたり夏つばめ
藤垂れてしばしとまれり車椅子
夏川のひびきを聞くや車椅子
はや出よと病院の窓夏つばめ
綿毛飛ぶ車の絶えぬ六号線
昨日のつづきは水車だった。水車は実際にはないが水車の輪だけを川に回していたり、店の飾りとして水車を回している。林道はそちこち多いし新しい林道も作っている。道ばかりふえてくるのが田舎なのである。その中にはかなりの無駄な道がある。道路や橋やトンネルにはかなりの無駄があることは確かである。これらを福祉にまわしてもらいたいというのは高齢化社会では切実になる。介護で苦しむ人がふえてくるからだ。それは都会の問題ではない、田舎の問題でもあるのだ。
今日は車椅子で病院を出て川の方まで行ったから相当距離を行った。あれだけ乗っていられるとするとかなりの遠出ができるのだ。病院で天井だけ見ていたら普通の人もおかしくなる。だから病院ではみんな一時的に認知症になっているのだ。認知症をもっていたらさらに悪化するだけである。病院も四カ月となると長い、家にいた記憶も定かでなくなり三日に一回行くから自分のことさえわからなくなっている。ただ車椅子にのるだけで相当行動範囲は広がるのである。介護タクシ−を利用すれば一時的にも家に帰れる。これは料金が高すぎるのが問題である。
車椅子でも車椅子を若い時から体の一部のように利用して暮らしている人もかなりいる。車椅子人生の人がかなりいる。車椅子でも自分で押している人もいるからそういう人はさらに行動範囲が広がる。車椅子から一旦おりて車に乗り車椅子をたたんで車に乗せられ人もいる。車椅子をそのまま車に乗せるには介護タクシ−が必要になる。車椅子はのせるときとおろす時が大変である。痛い痛いと苦しむ、立つことはできないから余計苦しいものとなる。それでもこれだけ行動範囲が広がったのだからしゃべれない人や外に出れない人よりはましだとなる。
●重大な訂正
老鴬や神の台座の磐一つ→老鴬や神の座となす磐一つ
これは重大な錯覚だった。台座と座では随分違っていた。台座では単に置くものとなってしまう。神が座る場として特別な座席として座としての磐だった。
そこに老鴬の鳴き声がひびいていたのだ。