

京都春の短歌連作(京より陸奥へ−義経と芭蕉の旅−エッセイ)
仁和寺に京の人となり我がまじり御室桜のありと知りしも
古りにしや京の御寺の門の前我たたずみし春の夕暮
手折りたる桜に椿手に持ちて乙女の立てり京の春かも
長々と築地塀ゆく春の日や花影歩み京になじまむ
優艶に枝垂れ桜や京の街五条の通り消えし女かも
春の日に京のいにしえいづこかな築地塀長く日影うつろふ
春の日に旅人しばし見てをりぬ京の老舗の飾り窓かも
さざなみの湖を巡りてなめらかな京言葉聞く湖西線かも
燃ゆるごとつつじの咲きて源氏の間残りゆかしき石山寺かも
京に入り朝日将軍埋もれたる寺こそあわれ春の日の夢
大原の夕べやあわれ花の散り女人のあわれ語る里かも
義経の夢かけめぐりみちのくにはてしもあわれ花は散るかな
阿武隈の山里の道ここにしも弁慶石や春の日暮れぬ
京の日の遠くなりにしみちのくの奥津城親し春もゆくかな
●京都に住んで京都はわかる
千年の都京都には様々な物語がある。ありすぎてかえってわからなくなる。地元の人すら歴史がわからないのだ。ただ京都のような歴史ある場所住んちょっと旅死したくらいではわからないのだ。京の日があり、なじむと京都がわかる。私は確かに京の日があった。ただそれも長いとはいえない、だから今になるとやはり記憶に残っているものがわずかである。なかなか記憶をたどることができないのだ。今回また過去に書いた短歌などから思い出して書き直して連作を書いた。短歌や俳句は短いから連作として一つの文学を構成すると読みごたえあるものになる。一句一首ではなかなか文学となりにくい、だから第二文学などと言われたのである。旅する時必ず現代があり過去があるのだがこの過去を知ることがむずかしい、京都すら現代をまず感じる、過去を感じることは相当な想像力が必要なのである。仁和寺といえば兼好法師で有名であり徒然草を思い出す、その寺自体が古い、でも京都に寺を訪ねても昔を偲べるかとなるとそうもいかない、寺が多すぎるからまたわかりにくくなる。でも仁和寺の門前に一時あったとき昔を偲ぶことになったのはやはり京都の歴史の重みであった。やはり歴史の重みを考えるなら京都に天皇がいるのがふさわしいとなるかもしれない、京都はまさに天皇の歴史でもあったからだ。東京は徳川幕府の歴史であり今の御所も江戸城のあったところだからふさわしくないとなる。江戸城を再建して観光の目玉にしようとする運動があっても天皇がおわします御所となると簡単にできないのである。だから御所はもともとあった京都の方がいいとなる。そこで日本の連綿とした歴史を現時点から偲べることになるからだ。
●京都の周辺の魅力
京を舞台にして様々な歴史物語が生まれた。その舞台になった所でありその歴史の跡はいたるところに残っている。しかしこれもなかなかわかりにくいのだ。京都は住んでみてしかなかなかわからないだろう。それも現代があり現代ではない過去を偲ぶとなると住んでいてもわかりにくい、人間は現在のみに心を奪われるからだ。ただ京都は大阪より昔の面影がまだいたるところに残っているから想像力と感性があれば昔を偲べる場所でもある。京都の魅力はまたその周辺にもあるのだ。琵琶湖や近江も京都周辺であり京の一部でもある。大津には朝日将軍(木曾 義仲)の義仲寺があり木曽から野望をもって進軍してきた将軍はあえなく敗退してここに葬られた。どういう奇遇なのだろうか、芭蕉もここに一緒に眠ることになった。芭蕉が木曽義仲に親しみを感じたのは人間の悲哀に共感したからかもしれない、平泉で滅びた奥州の都の跡をたずね残された金色堂を俳句に読んだこととも通じるものがある。京都とという権力争いの場所から敗れてここに眠っている。滅びるもの敗者への哀惜があったのかもしれない、そこには古井戸があり菖蒲が咲いていた。湖西というと琵琶湖の奥であり淋しい感じになるのもいい、比叡山にしても京都から離れた所としての修行の場として立地が良かった。大原も京都があってそこから落ち延びたという場所としての魅力がある。京都を中心にして歴史があり物語がある。これはみちのくまでもそうだった。それを象徴していたのが義経と弁慶の物語だった。これは日本海沿いを回り陸奥に逃れた、その過程に魅力かあり伝説化された。芭蕉も日本海を回ったことに意味があった。つまり陸奥と日本海は違った風土であり文化があったからである。古代でも日本海の航路が先に開け安倍の軍団が船を率いて蝦夷を征服するために上陸した。日本海が渤海との交流があったように先にあったのである。その渤海の重要性は壺の碑に記されている靺鞨であった。江戸時代になっても北前線で日本海は京都とのつながりが深いのである。文化的にも京の文化を各地に残しているのだ。それは波穏やかな日本海があったためである。
●京都と阿武隈のつながり
この義経と弁慶の伝説はみちのくにも点々と残されている。白河の関の近くでは
弁慶が,「具足(ぐそく=よろい)のようだナ。」と,みんなを振り向いて大きな声で言いました。なるほど,鎧甲(よろいかぶと)の「しころ・くさずり」のように岩が何枚も連なり,重なり合っています。里人はあとあと,この岩肌を「具足岩」と呼ぶようになりました。
具足岩から20m位先に,澄(す)んだ谷川が流れています。山あいの山々からしみ出てく水は,きれいで冷たく,手にすくって口に含めばさっぱりとすがすがしい。「五両の金を出しても買うていきたいような水だなア。」などと,言う者いるほどでした。里人はここを「五両沢」と呼ぶようになりました。
こうした伝説が阿武隈の浪江の津島まであった。浜通りには義経、弁慶の伝説は残っていない、浜通りは義経も弁慶も通っていないのだ。日本海から中通りを通り阿武隈から太平洋の方に向かっている。だから弁慶橋が二つも阿武隈の山の中にあった。浪江の海の方に向かっていたのだ。この伝説の径路はただ無闇に作られた根拠のないものではない、なぜなら浜通りには弁慶の伝説はなくこの阿武隈の山の中にあったからだ。つまり白河関から中通り三春などを通り浪江の津島まで伝わったのである。義経の面白さはやはり京都から逃れる過程に様々な伝説を残したことなのである。この伝説は北海道まで伝わり義経はジンギスカンになったとか大陸まで広がっているのだ。芭蕉の旅の過程も興味あるが義経の逃れた径路も興味がある。旅は過程にあるからだ。現代はこの過程がはぶかれるから旅が消失したのである。白河街道を幾重もの峠を越えて会津に行ったとき会津はいかに遠いか、そこに繁華な城下町があり城が聳えていた。それは電車で一気に行く会津とはまるで違ったものとなる。つまり現代はそういう旅ができないことが歴史についての洞察力、想像力の不足となりただ現実のみに目を奪われて歴史を肌で感じる感覚が喪失したのである。ただそうした歩きの旅や自転車の旅をしようとしたら大変な労力が必要となる。それが今介護でできなくなってはじめてわかった。勤め人はとても旅はできない、旅は最低でも一〇日間くらいの余裕がないとできない、私は旅する時は一カ月くらい見込んでしていたから余裕ある旅ができたのである。旅とは意外と金とか暇が必要であり現代ではかえって特別な人しかできなくなってしまった。旅とは芭蕉のように日常も旅となることである。芭蕉の場合は一生が旅であった。私も三〇年旅したとなるとそれに近いものであった。そうなると延々と旅している感じになる、死んでもなおも黄泉路へも旅している感じになるのである。
京の日の遠くなりにしみちのくの奥津城親し春もゆくかな
遂に年になり今や京は遠い、そして奥津城にたたずむと京ははるかにここに埋もれてゆくのかとなる。ただまだ人間はどこで死ぬかもわからない、故郷にしても病気になったり老人になり施設に入ったりすると隣の市でもそこが異境になり遠くになることを実感した。遠さは別に京都でなくても外国でなくてもあるむしろ外国が国内より交通の便で近くなっていることもある。遠さとはその人の境涯によって起こるのだ。病気によって半年も入院して家に帰れなかったら家は本当に遠い場所になってしまったのだ。山一つ越えて先なのだがそこが実に遠い場所になってしまっていたからだ。
花も散り病院に語り久しきや山一つ先の家に帰れじ
昔は徒歩の旅だから隣の村さえ遠いものだったろう。遠さは今でも境涯が変わると近くても遠いのである。老人になるとすべてが遠く感じることになるかもしれない、なかなか遠くへ行けないということになるからだ。遂には歩けなくなるとその行ける範囲は極めて限られてくるのである。
我が旅のなお終わらじやかけめぐる山また山や春はゆけども