相馬藩の飢饉の歴史(宝暦から始まっていた)
領民の疲弊は、宝暦(ほうれき)5年(1755年)の凶作と翌年の飢饉(ききん)に表れました。凶作の減収は4万6435石におよび、飢饉で藩から粥の施しを受けた窮民は、2万3994人にのぼりました。家臣団もまた減知をこうむり、百石以上の士は半減、以下の士もまたそれぞれ知行を借上げられることとなりました。
http://www.city.soma.fukushima.jp/rekisi/kouza/2007/200706.html
日立木で発見した宝暦の碑は一二年だがその前に相馬藩でも飢饉があったのだ。相馬市の新沼観音堂前に餓死供養塔があるとなるとそれは宝暦五年から七年のあとに建てられたから日立木の碑より古いとなる。
1755年〜1757年(宝暦5年〜7年) 宝暦の大飢饉
東北地方は7万4千俵の減収であったが、蓄えがなかったために大飢饉となる。
餓死者6万余人、死馬2万頭にのぼる。
岩手、志和郡が1万7864 人(人口の30.5 %)、三戸郡が1万2681 人(人口の55
%)、鹿角郡が3241 人(人口の20.8 %)、二戸郡が5446 人(人口の19 %)
飢饉で三分の一くらいに人口が減ったから深刻だった。長雨と冷害だった。東北の浜通りは稲作に向いていなかったという、海からの風(ヤマセ)で冷害になりやすかったのだ。
旧相馬藩領では、獅子頭を被って舞う神楽(いわゆる獅子神楽)が今も数多く伝承されています。相馬地方は昔からヤマセ(夏季に吹く冷たい東風)による冷害のため、たびたび飢饉に見舞われ、多くの餓死者を出してきました。特に天明の飢饉では、藩内の人口が3分の1にまで減少したそうです。そのため人々の豊作への願いは切実で、こうしたことも神楽などの民俗芸能が盛んに行われてきた背景の一つとされています。
こうした神楽とか祭りの起源は今のように遊びではない、密接に生活と結びついていた。雨が降らなければ雨乞いも真剣になるしそれが極端になると人身御供(ひとみごくう)も行われた。そういう女性がいて村の記念として語り継がれ像まで立っているところもある。これは世界的にあることだから珍しくない、インカは有名である。祭りには生活に密着して真剣なものがあったが忘れられて遊びになってしまった。飯館村の六字名号塔も大きいからここではかなり深刻だった。高原地帯だから冷害はさらにひびいた。だからこそあのような大きな供養塔を建てた。費用もかかったがやはりなんとか死んだ人を供養したいということで大きな塔を残した。これも宝暦であり飯館では一番古いものとなるだろう。
性空上人の到達した境地は結局南無阿弥陀仏の六字の名号を称えることにより、他力に依って、無生即ち一切空の世界、それ自体変化する事のない世界に入るのと同じである
大沢袴田の地に「南無阿弥陀仏」の碑を建てているが、八月、鞭牛は船越半島の突端大綱の山中(秀全和尚の修行の地)で天候回復の祈願と路頭で食べ物を求めながら倒れ死んでいった人々のため「六字之名号一万血書供養」を行った。
http://homepage3.nifty.com/bagusnya/bengyu/nenpyo.html
飢疫に逼り乞客目に溢れ死人眼に満てり。屍を臥して観と為し尸を竝べて橋と作す(立正安国論)
中世は行き倒れとか化野の煙絶えじとか道端でも死骸がごろごろしていたのである。死を日常的に見る世界だった。そこに無常を感じて宗教に帰依する人が多かった。そういう死骸を埋めて供養するのも宗教者であり一遍などはそうして死者を供養して回った。その頃墓にも葬られない、野垂れ死にが普通だった。そうした死者を葬り供養するのもかなた手間だから放置されていたのだ。餓死者も常に日常的に存在したのが中世ではそうであり江戸時代になると飢饉でそうなった。
1783 天明 3年 ◎天明の大飢饉 奥羽地方死者十万人
1784 天明 4年 ◎農民逃亡の為、農村荒廃
1811 文化 8年 ◎越後国蒲原群から僧恵敬が原町市増田にて布教活動(常福寺)
1813 文化 10年 ◎第一回移民四家族を相馬に誘導
1821 文政 4年 ◎小田原藩 二宮尊徳を登用 後に相馬藩でも登用 1832 天保 3年 ◎天保の大飢饉 奥羽地方死者十万人
1835 天保 6年 庄七(山田家初代)
五箇山大島(島村)から相馬郡石神村に子供三人を連れて移住する。
天明年間に発生した天明の大飢饉では大打撃を受け、領民の多くが餓死したり逃散した。これに危機感を抱いた藩の上層部は、密かに真宗教団と接触し、禁制であった移民を北陸から受け入れ、藩の立て直しを図った。
天明の大飢饉で相馬藩の農業は壊滅的打撃を受け、農民の数も減ってしまった。時の藩主は他国の農家の次男、三男を移民させて農業の復活を図ろうとし、諸国に声をかけた。その呼びかけに呼応した富山の農民達は、門徒宗僧侶の導きのもと厳しい監視の目を盗んで国抜けし、相馬を目指して数百キロの辛い旅に出た
飢饉はその後もつづき越中からの移民や二宮仕法で藩を建て直した。藩が国であったときは人の移動は一番むずかしいことであった。でも危急の際は人間は禁制も破る。あまりにも衝撃的打撃がそうさせてしまう。藩がつぶれてしまいかねないからだ。次男三男は土地をもてない余りものだから土地をもらいるということで移民してきた。越中からの移民は土地に根ざしているから農業するためだから相馬の土地に根付いた。一方今の移民は農業ではない、底辺の賃金労働だから定着しにくい、稼いだ賃金を母国に仕送りするために働いているのであり定着する土地などは与えられないから一時期の出稼ぎで母国に帰ることになる。農業は三代つづけて一人前になるというとき土地に根付くからそうなる。最初は苦労したが移民はよそ者だからかえって働くということがある。それは外国人でもそうであり日本人より必死になって働く、移民にはそういう効果があった。だから越中の移民はあとで豊かになる人もふえてきたのである。その土地に根付いたというときやはり土地を与えられたことが土着させた要因だった。鉱山とかで働いたとしたら資源をとり尽くしてしまいばまた移動するほかなくなってくるからだ。ともかく相馬では越中から移住した系統はわかりやいのである。
今回はほとんど自分で創作したものがなかった。インタ−ネットにでていたものを編集しただけであった。それでもこれだけのことが系統的に郷土史として明確にされる。このきっかけは日立木で宝暦一二年の甲子塔を発見したとき、宝暦という年号に興味を持ったからである。宝暦一三年の碑は岩手県にも残されていた。これも一遍の念仏衆と関係しているのかもしれない、インタ−ネットは郷土史研究にかなり役立つのだ。他の地域との情報の連携をはかることができるからだ。
中乙念仏踊り(岩手)
http://www.k2.dion.ne.jp/~kunera/page007.html