紫陽花(朝と夕べ)
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これで何かartになった
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紫陽花に朝日さしそめ蝶一羽舞いつつ去るや田舎の明けぬ
しっとりと雨にぬれたる紫陽花に夏菊映えて朝日さしそむ
紫陽花のあまた咲きにし夏菊の映えて田舎の夕暮静けし
紫陽花の咲いて落ち着く人にあれ雨しととふる田舎の道に
紫陽花の季節だけど昨日は夕べみたらこの写真の感じと違っていた。
写真でも朝と夕べは違っている。
光の具合で違っている。
昨日は曇って雨がふっていたから紫陽花にあっていた。
紫陽花は梅雨の花であるからそうなる
今日の朝見たら光がさしてきてまた違って見える、写真も違っている
多少明るい感じになる、ただこの辺は微妙でありわかりにくい
写真というのは光の影響が大きいと思った。
だからこの光の微妙な感覚を出すにはいいデジカメでないと写せない
六万のソニーのカメラはその光の感じをとらえている。
6万でも相当にこれはいいものだと感心した。
この紫陽花の咲いている道の向かい側では復興住宅が建ったし団地もまた建てている
だからまだまだこの辺は前のような落ち着きを取り戻していない
仮設に住んでいる人も大勢でありその人たちはそこにずっと住めるわけではない
それでも老人は何か慣れてかえって隣近所で友達もできていいとなった。
でもやはりここにずっと住むわけではないし来年は避難解除にもなるから落ち着くとはならない
ともかく写真は角度を変えてとると違ったものになる
それは技巧というのではなくただ角度を変えるだけなのである。
現代は膨大な写真が素人でもとっている。
写真芸術の時代でもある
写真は俳句の写生であり写真は偽らないものを写しだす
写真がありそこに俳句でも短歌でもそえる
写真とともに鑑賞する時代であり写真がないと鑑賞もできないとなる
それでも写真だけではものたりない、それは俳句は写生だが短歌は人間の心を反映するからである。心の反映したものを写真だけでは現せないのである。
だから言語は人間の心をの内面を伝えるものでありそれは写真だけでは伝えられないのである。
写真は朝とか夕暮なのかいつの時なのかわからないときがある。
季節だってわからない時がある。
特に雲とか太陽とかは夕日でも春なのか秋なのかわかりにくいのである。
写真だけでは何でも現すことができないことも確かである。