2008年05月06日

実朝の桜の歌


実朝の桜の歌

 
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たずねみるかひはまことに相坂(あふさか)の関路(せきじ)に匂ふ花にぞありける

あふ坂の嵐の風に散る花をしばしとどむる関守ぞなき

行きて見むと思いしほどに散りにけりあやなの花や風たたぬまに

春くれど人もすさめめぬ山桜風のたよりに我のみぞとふ

山風のさくら吹きまく音すなり吉野の瀧の岩もとどろに

山風のさくらふきまき散る花のみだれて見ゆる志賀の浦波

今年さえ訪われで暮れぬ桜花春もむなしき名にこそありけれ

春ふかみ嵐の山のさくら花咲くと見しまに散りにけるかな

春くれば糸鹿(いとか)の山の糸ざくら風にみだれて花そ散りける
 


関所の歌となるとこの歌が一番有名である。本歌取りとして関の歌だった。実朝の歌には本歌取りの歌が結構多いのだ。

 
吹く風をなこそのせきと思えども道もせに散る山桜かな 源義家
 
あふ坂の嵐の風に散る花をしばしとどむる関守ぞなき
 

足代(あて)過ぎて 糸鹿(いとか)の山の 桜花 散らず在らなむ 還り来るまで
(7/1212,読人知らず)

 
春くれば糸鹿(いとか)の山の糸ざくら風にみだれて花そ散りける

鎌倉時代も西行の時代だから花は山桜であり染井吉野ではない、山風ときて桜となれば山桜をさしている。
そもそも桜は日本の山に咲いていたものを品種改良したものである。八重桜もそうだった。
 
八重桜は奈良時代、聖武天皇(701〜756)が奈良の三笠山に出かけた折にとても美しい桜が咲いていたので一枝を採り光明皇后へのお土産にされたという、後に光明皇后はその桜を都に移植する事を望まれ、三笠山から掘り起こされて都に移植された。その桜は「霞桜」の変種で淡紅色でやや小型の八重桜であつた。
 八重桜は接木で増やされ、都の花として大切に育てられた
http://sakuramori.at.webry.info/200504/article_2.html
 
いにしへの奈良の都の八重桜けふ九重ににほいひぬるかも(伊勢大輔)
 
八重桜も山に咲いていたのである。これも錯覚しやすいのである。染井吉野ののように品種改良したものだと
思っていた。霞桜というのも見分けるのがむずかしいだろう。山に咲いているから山桜になってしまう。糸ざくらは枝垂桜の別名である。糸ざくらのほうが詩的な名前かもしれない、それにしても実朝は28才で死んだのは驚いた。やはり啄木のような天才だった。独自の歌風をこの若さで作っていた。この歌の中でも実朝の短い生涯が反映されている。
 
山風のさくら吹きまく音すなり吉野の瀧の岩もとどろに
 
これなどは短い生涯の中で轟いている瀧に山桜が荒い風に散る、実朝の運命的な人生を反映しているのかもしれない、山風のなかに咲いている山桜を私も短歌にしたが山桜は荒々しい自然のなかに咲いているのにあっているからだ。最近発見したのは鎌倉時代は魅力ある時代だった。相馬郷土史関連でも書いたが鎌倉時代はわが町とも歴史的に関係していた。実朝の歌が残っていた。
 
みちのくの真野の萱原かりにだに来ぬ人をのみ待つが苦しさ
 
ここでは萱原となっているが草原が原文である。草原(かやはら)は常に萱原としてイメ−ジされていたのである。なぜ萱原にしたのか、原文を読んでいなかったのか?ただ草原を萱原とイメ−ジしたからこの歌になった。「茅原」は諸本「草原」を宛て「かやはら」と訓んでいる。考えてみるとこうして草原を萱原としてイメ−ジして歌われた古歌が実に多い、それが誤りだったのである。今回は実朝の桜の歌を抜粋して桜についての評論のつづきを書いた。実朝に関しては最近興味が出て本など買ったのでまた書いてみよう。実朝の歌は西行とは違い背景に鎌倉の重い歴史があるから別なのである。それが単なる短歌に留まらない歴史としての考証やらが関係してくる。いづれにしろ鎌倉時代は実朝の歌でもそうだが重厚な文化を作り上げた時代だった。奈良時代−鎌倉時代−明治時代が日本では画期的変革の時代だったのだ。だからここに日本のルネサンスがあった時代だったのである。


       

 
 
 
 
 
 


 

posted by 老鶯 at 00:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 鎌倉-俳句短歌-随筆
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