2008年05月05日

白つつじ(看護師の名はまだなじめない)


葉桜や男交じりて看護師に


看護婦の白衣ににしや白つつじ朝の駅に咲き病院にゆく

八重桜色濃く散りぬ夕暮れや駅おりて帰る田舎の町かな
 
看護師というとなじみがまだない、看護婦というとこれは歴史が長いからなじみがある。職業もなじみがないと違和感覚えるのが人間である。介護士とか理学療法士とか今は病院でもいろんな人がかかわる。今や私の勤めは病院での介護である。リハビリの介助である。三日に一回でも病人相手は疲れる。帰るとぐったりする。看護というのは体力が必要であり若い力が必要でもあるのだ。病院には看護師で若い男の人が女性に交じって仕事している。女性の下の世話もしている。確かに男でも今は看護師として仕事しているのだ。男一人だからやりづらいとか思う、リハビリをする人は男子が多いからそれほど違和感ないみたいだ。看護婦というと白衣であり白つつじがにあっていた。白つつじは一輪ではなく固まって咲くからだ。それが看護婦とあっていたのだ。看護婦も集団で働いているからである。
 
向かいの笑うことと泣くことしかできない老女は不思議である。何かしゃべろうとしているのだか口をもぐもぐしてしゃべれないのだ。だから泣くことと笑うことしかない、隣にいた人は暇なししゃべっていてちょっとの間も夫がいないと騒ぐのである。それでその人が泣くと看護婦さんを呼んでくれていた。その人も退院したのでいなくなり病室は淋しくなった。あの人も家で夫が看護するとしたら三食用意しなければならないしその他全部の世話が夫になる。少しの間も離れることができないのだ。認知症の人は一人にしておくと不安になる。私もちょっと買い物に行っただけで何も言わずにどこに行っていたとか一人にしておくと不安になっていたのだ。それが大きな認知症の介護の問題なのである。今は病院では看護婦が声をかけてくれる、リハビリの人も声をかけてくれるからいい、家にいた時は誰も声をかけてくれない、一人っきりになっていたのだ。認知症になってからあれだけ付き合いがあった人でも付き合いがなくなるのだ。だから病院では声をかけてくれるだけでもいいなつくづく思う。病院にいてくれた方が楽なのである。
 
三日に一回は行けるのだがその間介護する人がいないのが問題である。リハビリしてくれる人も一時間くらいであり短いのである。リハビリは一日やるものなのである。起き上がらせ、車椅子にのせおろしとそれが一日なのである。そうすると一日見守っていなけれはならない、それができる人は少ない、だから向かいの人も今度は入った隣の人も重傷でも付き添いが一日いるわけではない、つまり人手がたりない、看護師でも人手がたりないからナ−スコ−ルを何回しても来ないとか問題になる。寝たきりにさせてしまうのは人手がたりないからである。一人の老人を一日見守って介護できないから寝たきりにさせてしまう。私も毎日行きたくても行けないから三日に一回になりその間リハビリできないことが問題になるのだ。
 
駅というとやはりまだそれなりに生活の要の場でもある。車社会にはなったがまだ利用する人がある。田舎では必ず電車にのるのに五分くらい待ってのる。発射するまで五分とかの時間はかならず生じる。それは一時間に一回だから自然とそうなってしまうのである。3分間おきなどありえない、それは人間的時間を逸脱している。だから事故が起きたのである。あの百人死んだ事故はJRの責任ではない、過密な時間が異常であり人間の生活感覚の限界を越えたものだったからだ。3分待つのにいらいらしていること自体異常なのである。その異常な感覚が普通だと思っている故の事故だった。だから運転手も責めることもできない、そういう文明生活そのものが異常なのである。度をこしているから事故が必然的に起きたのである。これからもやはりいくら注意しても起きる、防ぎようがない時間の感覚だからだ。文明の便利さの追求は全く人間から時間を奪ったというのは本当である。
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