飯館の遅い春
風荒し峠越ゆるや芽吹きかな
飯館に半年ぶりや燕来る
動かざる石やこぶしに耕しぬ
飯館や牛に桜や夕日かな
山鳩の畑飛びきて芽吹きかな
飯館の家々離れ芽吹きかな
花の影歩みて去りぬ人知らじ
滝いくつひびきて芽吹く山の上
蝶出会う山路や遠く道つづく
古峰の碑一つ下に山桜朝日のさして風にそよぎぬ
巌そそり朝日に映えて山桜風の荒しも樹々の芽吹きぬ
風荒しなお散らず咲く山桜鳥鳴く声のひびき木霊す
飯館の山陰静か日あたりてキクザキイチゲ今し開かむ
片栗とキクザキイチゲともに咲く山陰静か日のあたりけり
春の鳥ひたすら鳴くや畑中の樹々をゆらして風のうなりぬ
久しくも小宮には行かじ別れ道今日風荒し春の午後かな
飯館に枝垂桜の色染みる家点々とものさみしかな
飯館の坂を越え来たり春の山なおも遠くに我行かむかな
道の辺の一本の松にかなたより春風吹きぬ我がすすむゆく
飯樋に我はい出けり春の風そよぎうなりて耕しはじむ
春の日に松風かなり飯館の墓所をたずねて我が帰るかな
鶯に山雀鳴くや飯館を坂をこえつつ夕べ去りゆく
飯館を我がさりゆくや一際に鳥の声ひびく春の夕暮
上萱に人住まずなりて一本の桜残るや我がより暮れぬ

飯館へ半年ぶりに行った、病人の介護でなかなか行けなかった。この頃前行ったときも風が強かった。それで大倉までしか行けなかった。なんか飯館にゆく時風が吹く、今日の風も相当強かった。山桜でも桜はまだ飯館では咲いていた。寒いからかもしれない、キクザキイチゲもようやく開こうとししていたのだから遅いのかもしれない、ただ辛夷の花は散っていた。別れ道で前は良く小宮の方へ行っていたが今は行かなくなった。近くでも今はあまり遠くに行けない、相当時間がかかる。ここにくるまでにすでに2時ころにいつもなっている。それから飯館から飯樋に行って帰ってきた。飯館では見るべきものはない、その見るべきものがないところがいいのである。家々が離れて林のなかにあり道は縦横に林の中に消える、街だと家が密集してそんなに悠々と住めないのである。それはかなり贅沢な住み方なのである。山は今暮らしにくいが林の中に隣と離れて住むことは贅沢である。都会では隣との隙間すらない、アパ−トやマンションだって住み心地いいとはならない、その良さを住んでいる人は自覚できないのである。

飯館の春
家々は木立の中に隠れ
春の鳥しきりさえづり
花影の道行き来するや
山鳩の畑に樹々芽吹く
道の辺の松一本により
風はかなたゆ吹きくる
道はつづきて蝶舞うや
鶯そちこち絶えず鳴き
広々とい出しやどこそ
春うらら耕しの人あり
春の山を遠くに望みつ
山の村に大きく息吸い
ここも我が里なりしも
飯館から飯樋に出るとまた平野が広がっているから気持ちがいい、高原の平地は気持ちいい、ただ正直人間どこに住んでもいいとはならない、ここに住んだら不便だしいろいろいやなことも聞くしかえって山村はすみずらいのだ。人間関係がわずらわしいのである。田舎の人間は都会の人間にものすごく嫌われている。かえって田舎の人間の醜さを露骨に批判している。それはネットでしやすいから本音であるし事実でもある。要するに人間は田舎では人間の醜さが人が少ないから目立つということがある。都会では人が多いからいちいち気にしていられないのだ。また簡単に移動できるからいいのである。飯館でも例えばそこに住むのではなく花の影の下を通って過ぎ去ってゆくなら問題ないとなる。旅人がいいのは過ぎ去ってゆくからなのだ。つまりこの世に桃源郷などないのだ。そこに住んだら醜い面が露骨に現れいやになるのだ。ともかく今日は実に気持ちいい日だった。半年ぶりだったから特にそうだった。身辺に問題かかえると本当に近くも遠くなってしまった。

上萱には人は住んでいない、この桜は人が住んでいたとき咲いていたのだ。
一人老人が住んでいたみたいだけど前から住んでいた人ではない
前から住んでいた人はみないなくなった、墓まで引っ越してなくなった。
それでなんとなく人この桜が人恋しいとここに一本咲いている。
満開なのだが花見にも来ないの淋しいと咲いている。
桜は人間臭い花なんだ、人恋しい花なんだ、そこが普通の花と違っている
人住まずなりし上萱夕暮れの森に鳥なき桜散りにき