浦戸諸島を訪ねて(続編2)
島と島結ぶ小舟や春の昼
春光や島々飛び交う鴎かな
島に住み春の別れや鴎かな
朴島は宝の島と春の海
昔より生業古りぬ牡蠣棚に島の梅散り香り流れぬ
島にしも畑作りてあわれかな船待つ湊春の日暮れぬ
野々島に広き野ありと船のより春草生えて鴎飛ぶかな
石浜と味気なき名や船のよる日々の暮らしや春の訪れ
寒風沢の島に残れる地蔵なれ栄いは消えて枯芦の沼
東北の太平洋岸では松島は島が一番多いから特殊な地域だった。海の文化がある育つ地域だったのだ。ここでは貝塚がいくつも発見されているから昔から人が住み暮らしやすい場所だった。波は荒くないし内海になり島が点々と連なる。太平洋岸は海の魅力にともしいのだ。島や入江があることによって海は魅力をますし文化が育つ、牡蠣はすでに
その中でも牡蠣の養殖は古く今からおよそ三百年ぐらい前にさかのぼり、野々島に住む内海庄左衛門さんが、天然の牡蠣を採り集めそれを売つて生計を立てていたそうです。しかし庄左衛門はあるときこのまま採つてばかりでは牡蠣がなくなつてしまうと思い周りにあつた稚貝をあつめて一定の場所に放し育てたそうです。これが宮城の牡蠣養殖の始まりだといわれています。
牡蠣の養殖もすでに古くからはじまっていたのだ。この島々は古くから人が住んでいたということも魅力である。隣の島に簡単に小舟で行けるし塩釜にも昔から舟で行っていたから交通は島々でもあり陸へもさほど遠くないから交流できたのである。小さな瀬戸内海のようになっていた。ここの風景は京にも知られたというのもわかる。本塩釜とかここの風景を庭に作ったというのもここは都の人にも魅力的だったのである。
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