2008年04月24日

鉄、銅、馬、黄金、塩の道としての陸奥の真野の草原


鉄、銅、馬、黄金、塩の道としての陸奥の真野の草原


●塩釜の塩は多賀城の城壁の接着剤に使われた
 
陸奥に中央政府が求めたのは資源である。鉄は陸奥の真野の草原が産地でまた製鉄の一大拠点の場となったから奈良の都にも知られたのである。草原→萱の原ではない、鉄を作り加工する場所としての草原だった。
 
みちのくの真野の草原遠けれど面影にして見ゆというものを 笠女郎

すめろきの御代栄えむと東なる陸奥山に金(くがね)花咲く 大伴家持
 
これは鉄と黄金の産地としての場所であり風流とか詩的なものとは違っているし風流からとか詩的イメ−ジで古代が語られるわけがない、陸奥の荒蕪の地に求めたのは具体的な資源だったのである。和銅と年号になったのもそのためである。これは東北に産出した銅という説もある。現代の文明の年号は世界中で石油になっている。その他に陸奥は名馬の産地でありこれも靺鞨(マッカツ)国−渤海との交流でもたらされた、多賀城の壺の碑に靺鞨とあるのはそのためである。つまり資源を求めて陸奥に中央政府は征服にきて多賀城を作ったのである。歌枕も鉄の産地として関係していて風流の歌枕の旅はそのあとに知られるようになった。塩は塩釜であり大量の塩が生産された。釜とあるからまさに塩を生産する釜が大事であってこれも資源であった。塩釜は島が多いから塩の生産に向いていた。だから塩をとる煙が絶えなかったのである。相馬の松川浦の原釜も釜とあるから塩をとる場所だった。意外なのは塩が接着剤として多賀城で大量に使われていた。接着剤は建築で重要でありさまざまなものが使われていた。米もノリになるから接着剤はいろいろなもので使われている必需品だった。
 
塩竈は、古くから塩造りで栄えた町であり、食用はもちろんでしたが、それ以上に城壁を固める為の接着剤として大量に製塩されたようです。多賀城国府が東北の軍事拠点として存在していたために、東北各地に運ばれたと考えられます
http://ebisuya-turi.com/rekisi.htm

塩に含まれる「にがり」 が土を締める動きがあることから、築地塀や道路を作る時にこの塩を使ったとも考えられている

多賀城と古代交流の道

(塩からつくられた塩素は塩化ビニル、水道水の消毒、漂白剤、接着剤などに・・・)

塩釜は食料の塩だけではない建築にも使用されていたら大量に塩を生産する場所として重要だったのである。いづれにしろ東北は近代まで中央に資源を提供する場として重宝であった。地方は都会に資源を提供するのは戦後の一〇年くらいまで継続していた。炭が燃料の時代は二千年もつづいている。日本のいたるところに森林鉄道ができたのも木材を供給するためであり石炭もそうだった。資源はみな国内でまかなうほかなかったからである。人間はあらゆるものを燃料として使わねばならない、インドでは牛糞も燃料となる。当時石炭の産地はも筑豊でもも夕張でもまた石炭の積みだし港として鉄道が敷かれた小樽でも石炭の街として記憶されていた。ミイケ、イワキ、ユウバリ、・・・・という名前は石炭のとれる場所としてイメ−ジされていたのである。みちのくの真野の草原遠けれど・・・の別な解釈はそんな遠い地にも鉄も求め黄金を求めてゆくという意味がふくまれていたのだ。みちのくの真野の草原とは具体的な利を得る、資源と鉄の一大生産場所だった。一面に萱原がなびくだけの荒蕪の地としてイメ−ジされることないのだ。笠女郎が面影に見ゆと歌ったのは萱原でイメ−ジされるものではなく慕う大伴家持のことであり陸奥のような遠い所に行ってもあなたの面影は忘れることはありませんということなのである。
 
●大伴家持は陸奥で死んだ?
 
大伴家持は陸奥に派遣されて死んだともされているし真野の草原の歌は時代的にあっていないというがそのあとに作られたらしいという考察もありそれも真野の草原の歌と具体的に一致するからその方が歴史的事実なのかもしれない、逆に大伴家持が秋田まで遠征して笠女郎を思った歌を残していたという、その木簡は「春なれば今しく悲し−ゆめよ妹、早くい渡さね 取り交わし・・・・」の考察も飛躍しているにしてもありえないことではない、大伴家持が陸奥のさらに奥地で面影に見ていたのが笠女郎だったというのも必ずしも空想とも言えないのである。そうでないと真野の草原の歌はなかなか理解しがたいものとなるからだ。大伴家持が陸奥で死んだとしたらこの歌もリアリティが帯びてくるのである。
 
家持の陸奥にし死なむ女郎(いらつめ)の思いは遠く真野の草原

家持の陸奥に死せしとその魂(たま)のさまよいつつも奈良し思いぬ
 
万葉集で明確に特定される地名は不明なのが多い、ただ陸奥では黄金のとれた小田と鉄のとれた真野の草原は具体的に今でもわかる。黄金とか鉄の産地はその鉱脈のある砂鉄がとれる狭くても一地点が大事になるから地名として明確に記憶されたともとれる。アメリカの西部開拓がエルドラ−ド(黄金郷)を求めての開拓であり未開拓の地へは資源を求めることが先にある。銀もその一つであり銅もキプロスの名が銅に由来するように島でも資源が大事になるのだ。天平21年(749)、陸奥守だった百済王敬福は、任地の陸奥国(今の茨城県)から産出した黄金900両を大仏の鍍金のために献上し、聖武天皇をいたく喜ばせた。この鉄や黄金の発掘には渡来人が技術をもっていて深くかかわったのだ。白人という名前が泉廃寺跡から発見されたのも

渡来人がすでにここに住みついていたからである。
 

いづれにしろ家持の最後は謎であり大伴家持自体が
  

    鶏が鳴く 東の国の 陸奥の 小田なる山に
  金ありと 奏(まう)し賜へれ 御心を 明らめ賜ひ
  食(を)す国は 栄えむものと 神ながら 思ほしめして
  もののふの 八十伴の雄を まつろへの むけのまにまに
  その名をば 大来目主(おほくめぬし)と 負ひ持ちて 仕へし職(つかさ)
  海行かば 水漬(みづ)く屍(かばね) 山行かば 草生(む)す屍
  大王の 辺(へ)にこそ死なめ かへり見は せじと

 
この歌のように陸奥で死んだとなる。これは大伴氏が黄金を大仏の鍍金の黄金を求めて天皇に仕えるという意味でもあり天皇のために敵を殺すというより黄金を求め黄金を天皇に献上することに要点が置かれていたのである。戦争でもこの歌がとりあげられたが万葉集時代と同じ意味にとることはできない、ただこの時代にこの歌が現実化したことはショックだった。テレビで水漬く屍、草生す屍としてジャングルから日本兵の頭蓋骨が掘り出されたのはあまりにも悲惨だし今でも日本兵の屍は異国に放置されている。ともかくこの気概で陸奥に老いて赴任して死んだのかもしれない、外国で死んだ日本兵も日本へ帰る思い残して死んだ。その故国を思う人は家族であれ恋人であれあまりにも悲惨であった。つくづく人間は故郷を離れてみてはじめて故郷を慕う望郷の念を強烈に抱く、現実は家族が家から離れて病院や施設に入れられると常に家に帰りたいと嘆きつづける。家は一つ山越えた先なのだがそこに重病で帰られないという現実があった。そんな近くでも帰らないというのは一つの悲劇である。つまりこんなに近くでも一旦家から離れると強烈に家を思い面影として浮かぶのが人間なのである。面影を求める心は死んだ後もつづいている。愛する人の面影は求めつづけられる。それは家族が切り離される時もそうなる。家族の価値も空気のようなものだが一旦一人でも失われると強烈にその欠けたるものを思うことになる。人間存在の価値は失われてはじめて気づくことがかなりあるのだ。笠女郎があれだけの名歌を残したのは皮肉にも大伴家持と常に離れていたからである。それが陸奥の真野の草原まで面影を追い求める結果になったのである。
 

(参考の本)
秋田城木簡に秘めた万葉集(大伴家持と笠女郎)
(吉田金彦)


 

posted by 老鶯 at 21:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)
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