2008年04月23日

朝の山桜

yamasa111.jpg
 

群れ泳ぐ鯉生き生きと山桜

蟻歩み朝坂越えて病院に
 

冬眠をさめて蛙の合唱や朝風そよぐ山桜見ゆ

山桜白さ際立ち雪のごと風にそよぎて朝のすがしも

すさまじく鳥鳴く声のひびきつ朝日に匂う山桜かな

夕日さし山桜咲く旧道に家のともしく我が帰るかな

街中の桜は散れど山桜ういういしくも咲きし朝かな

街中の桜は散りぬ山桜遅く山にし咲くを仰ぎぬ

清流のひびく巌や朝日さし高きに仰ぐ山桜かな


 
「しき嶋のやまとごゝろを人とはゞ朝日にゝほふ山ざくら花」本居宣長
 
この歌は山桜であり朝日にふさわしかった。染井吉野は吉野からきているから吉野の桜は染井吉野と勘違いしやすい、ほんの一部が染井吉野でありあとは山桜であった。西行が歌ったのも山桜である。前にも書いたけど染井吉野と山桜は混同しやすいのだ。山桜は野性的に日本に本来自生している桜であり染井吉野は園芸種だったとなる。山桜は葉から先に出て咲きちる、染井吉野花が出て葉になる、花がちったあとを葉桜というのもわかる。古来残っている短歌は山桜を歌ったものであり染井吉野ではないことも混同しやすい、山桜を歌っていても染井吉野と混同しているのだ。山桜の特徴は葉であり雪のように白い花びらであった。だから余計に清楚であり清潔感が漂う花だった。これが潔さに通じる日本の美学となったが戦時中は別な意図で用いられた。
 

散るときのいかにもこゝちよき事なり。咲き乱れたる頃、颯と吹きくる風の一たび其の梢を払へば、花は繽粉と飛びちりて聊かも惜しむこころなきものゝ如し。そのさまは恰も武士の笑を含みて死に就くに似たり。花のたふとむべき所こゝにあり。
http://www.norinagakinenkan.com/norinaga/kaisetsu/

shikishima_sonogo.html
 
宣長の歌にはどこにも散る桜の潔さは歌われていない、むしろ雪のように白く咲く山桜の汚れなさを見事に歌ったのである。ただ敷島とあり大和心となり戦時中に利用された。つまり死をすすめる歌としてもてはやされた。死とは何の関係もなかったのである。武士道とも関係ない、武士道は死ぬことと見つけたりというとき死んでも悔いない生きる目的を見つけたということでありそれが戦争であったとは思えないのだ。
 
いづれにしろ世の中でも自然でもわからないことが多すぎる、60になっても染井吉野と山桜の違いが良くわからなかったということは日本でこれだけ有名な桜すら良くわかっていない、人間は何事良く見ていないのである。街中の桜はたいがい染井吉野であり山の木々のなかに孤立的に清楚に咲いている白さが目立つ花が山桜なのである。山桜はこれからも咲く、遅く咲くのも特徴であるからまだ山の方に行ければ見れるのである。山桜は高いところに孤立的に咲くのも特徴である。山桜は染井吉野ののように街中に群生して咲かない、本来桜並木にならない花である。山の空気のなかに咲くのにふさわしいのである。とにかくまだ山には山桜が見られるのだから見に行こう、ただまた天気が悪くなる。そのうち散ってしまうかもしれない、桜はともかく多様であり日本の文化の象徴ともなったけど未だに良く見ていない、なぜなら山桜を歌ったものを染井吉野と錯覚している。古歌を鑑賞する時染井吉野と見るとおかしなことになる。万葉集に桜の歌が少ないのはその時まだ桜の美に気づいていない、桜は目立った花ではなかったのである。
 
日の本の国にし生きて桜すらそは知らざりき齢重ぬも
 

山桜の美(染井吉野と混同された美)
http://musubu.jp/sakuranew-4.html

 


 

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