2008年04月23日

日立木(日下石+立谷+赤木)も合成地名

 
日立木(日下石立谷赤木)も合成地名
 
明治以降合成地名が増えて地名がまぎらわしくなった。日立木といえば昔からあったように錯覚していた。これも合成地名だった。立谷町となっている所が陸前浜街道で日立木村の中心地なのである。日下石村が相馬藩のときにあったが日立木村はなかったのだ。日下石+立谷+赤木=日立木となっている。こんな数式みたいに地名を名づけるから本来の歴史的地名が忘れられる。飯館も合成地名でありこれも元からあったと錯覚していた。図のように二回も三回も合成されたら元の地名がわからなくなってしまうのだ。全国に合成地名は多い、明治以降に合併が相次ぎ増えたのである。だから元からあった地名と錯覚しやすいのだ。地名は数式と違うから合成地名は良くない、江戸時代の地名を基本にしてあまり変えない方がいいのだ。南相馬市は相馬という歴史的地名を残したから良かったのかもしれない、やはり雲雀野市とかなると団地を連想したりするからまずい面があった。雲雀市となっても他から見てぴんとこないからである。相馬とついていれば相馬かとすぐにわかるからだ。
 
立谷の地域は相当古い場所である。立谷という地名があって立谷氏を名乗る人が移住してでてきた。

紀州出身の鈴木重原(孫)の次男か三男が相馬の西方、熊野神社が有りました場所になる中野地区の場所の地名を取って中野と名字を名乗り、その後北畠顕家の家臣に成っていた、中野左近亮が北畠顕家の死亡の後に北畠家より離れて相馬の南方に当たる立谷部落に移り、立谷左近亮と名乗り、立谷家が生まれました。
http://blog.livedoor.jp/tachiyafamily/

 
東北に熊野神社が多いのはこうした移住した人たちが神社をもってきたからである。立谷御殿跡があったとかなると実際原釜から船で材木を積み出して財を築いたという。原釜にそれだけの船を出すことができたのか不明である。その土地の地名を姓にすることは良くある。でも明治以降はない、日立木という姓を名乗る人はいないのである。その土地の名を姓にすることはかなり古い家柄なことがわかる。郷土史で大事なのが村の新旧であるとき合成地名はその歴史的地名を歪めてしまうのである。日立木を外部の人でも合成地名として判読する人はいない、数式を解くのとは違うからである。しかし現実は合成地名は普通であり多いからまぎらわしくなるのだ。
 
 iidatenamae.jpg
 
 
 


 

この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。
この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/14317764
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。
※言及リンクのないトラックバックは受信されません。

この記事へのトラックバック