

春の朴島をたずねて(浦戸諸島)・・・・
朴島の小道に舞いぬしじみ蝶
朴島のタブの木古りぬ春の暮
朴島に家十軒ほど落椿
朴島の春や牡蠣殻墓所に船
朴島や菜の花匂う昼間かな
朴島の小径歩みてしじみ蝶
朴島やはや道尽きて落椿
朴島に家一〇軒ほど落椿
朴島や畑に水仙暮らしかな
朴島隠さる宝春の暮
朴島にタブの木茂り春の風
春の朝海より望む高き山
船めぐる浦戸諸島や春の暮
汽笛なり船着く港春の朝
春の朝沖にいでむや鴎飛ぶ
島々や海に面して芽吹きかな
many islands
facing to the sea
breaking buds
朴島に何を見なむや船の着き墓所をたずねて春の日帰りぬ
朴島は小さき島や道尽きて椿散り海の光りぬ
朴島に残れる梅の香りつつ牡蠣棚見えて散るもかそけき
面積0.15km2人口約40人。浦戸諸島では最も奥にあり、最も小さな島である。島名の由来は、鳳凰が住んでいたからとも、烽火(狼煙)場があった
からとも、仙台藩にまつわる宝島伝説があるからとも言われている。毎年ゴールデンウィークの時期になると、見事な菜の花が島全体を覆い尽くす。また、島内にはタブノキの原生林がある。朴島の周囲にある、大森島、鷺島、味噌玉島、烏帽子島などの無人島群は、烏帽子列島と呼ばれている。
四方を海に囲まれた浦戸は、その恩恵を受け、昔より牡蠣や海苔の養殖、又、刺し網漁などが盛んで島民の半数以上が、漁業にたずさわつて、生活して参りました。
その中でも牡蠣の養殖は古く今からおよそ三百年ぐらい前にさかのぼり、
私の住んでいるここ、野々島に住む内海庄左衛門さん(昔は野々島村といいました)が、天然の牡蠣を採り集めそれを売つて生計を立てていたそうです。
しかし庄左衛門はあるときこのまま採つてばかりでは牡蠣がなくなつてしまうと思い周りにあつた稚貝をあつめて一定の場所に放し育てたそうです。これが宮城の牡蠣養殖の始まりだといわれています。
朴島堂ヶ崎、共同墓地の北側畑中(行人塚)に古碑(縦90センチメートル横35センチメートル)があり、弘安10年(1287年)の碑と称し、内海喜右衛門家代々観音様と言われ供養を続けられています。
摩滅していて判読が難しいですが、梵字の碑文が刻まれています。

朴島は朴(ほほ)の花とは関係ない、当て字である。具体的な実用的な名づけ方なら烽火(狼煙)場だったのか、そのくらいしか役目がないのか、この島は実に小さい島である。そこに人が住んでいる不思議がある。それも江戸時代から住んでいる。相当に住んでいる弘安10年(1287年)の碑なのだろうか、こんな古い碑があるのか、これは本当に確かめられているのか、内海という姓は浦戸諸島に縁が深いし有力な家だった。朴島に訪ねて見るのは墓くらいだった。文化の時代の墓もあったからここから古くから人が住んでいたのである。この島の特徴は本当に小さいのである。回りは無人島が多いのにこの小さな島に人が住んでいるから不思議である。日本人はこうした小さな島の生活が基になり文化を作ってきた。こうした島にいると微に入り細に入り隈なく島一つが世界になり宇宙になってしまうのだ。そこにある一つ一つ草一本すら大事なもののように見える。草一本石ころ一つ一つまで数えるようにまでなる。それが日本の美意識を培い茶室のような文化を作ったのである。この島は実に面白い島であった。
墓には円が刻まれていたから禅宗の墓である。円通寺とあれば円に通じるは禅の悟りに通じる意味がある。瑞巌寺は禅宗であり禅宗は鎌倉から伝わってきてここにも伝播した。ここの無縁墓は若松家となっていた。この島にきて見るべきものはこの墓所は神社とタブの木くらいである。写真は他とそっくりのがあるがこれは実際自分がとったのものである。全く同じ写真はありうるのだ。俳句でもありうる。短歌は長いからなかなかないが俳句は全く同じものがあるし写真もあるのだ。松島はこの浦戸諸島とか歴史的にも興味深い場所だった。遠くに行けなければ微に入り細に入りいろいろ探求することになるのが人間である。ここは仙台から近い日帰り圏内だからまた行き安いのである。福島の方は岩沼で乗り換えるからめんどうになる。仙台からのびる所は交通の便がいい、特に石巻方面は交通の便がいいから行きやすい、ここには相当な歴史が埋もれているのも魅力である。
海から見えた高い山は泉が岳だろう、海から望む高い山は気持ちがいい、海で暮らす人には船が帰る目印となる、灯台ともなる、海からの視点はなかなかえにくいがここには海の景観と文化がある。