2008年04月14日

蕗の薹

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清流に北海道や蕗の薹
 

次世代の若き力や蕗の薹

蛙鳴き介護に行くや田舎道

墓尋ね枝垂桜や夕暮れぬ

夜桜や花見もなしや雲に月
 
介護にゆく旧道の田んぼに蛙が鳴いている、蛙が鳴いているだけで心が和むのが人間である。人間は自然と共鳴しないと心も荒れる、車の洪水の中でビルの谷間で生活していたら心も荒れる、ギスギスしてしまうのだ。蛙の声を聞くだけで童心に帰るというか心がなごみいやされるのだ。子供に心がいやされるのとにている。医療は都会が発達しているしいろいろ選べるし実際わざわざ東京まで行って精密検査してきている人がいる。東京になれば田舎とは機器も格段にいいものを使っているから診断も違ってくる。現実認知症を診てもらうところはなかった。ただでは都会が全部いいかというと田舎は環境的に自然に恵まれているから自然にいやされるということがあるから老人の介護には田舎が向いているともなる。どっちにしろ都会には施設とか医療とか恵まれているが環境的にいやされるものがないとか両方があるところは少ない、だからやはり10万くらいの都市に住むと両方あるからいいとなる。
 
今日は近くの墓の調査をしただけである。郷土史の方にのせるためである。川の土手の夜桜を見に行ったら誰も見ていない、都会の夜桜見物はない、暗い中に外灯に照らされて桜が咲いている。上を見たら雲に月が隠れる、最近ここでは花見すらしていない、前はやっていたが今はしていない、人の活気がまるでないの問題である。活気がありすぎるのも困るがないのも困る。両方あればいいのだがそれもうまくいかないのがこの世である。やっぱり蕗の薹次世代の若い力が伸びてゆく象徴である。若いというだけ価値がある、何もなくても若いということはともかく伸びてゆくことだから価値がある。
蕗の薹とというとやはり北海道を旅した時山の中でたくさんの蕗の薹を見た。北海道は本州と違い自然が違って見える、空気まで違っている。北海道は大陸的に広々としているからである。日本的狭苦しい山国ではないから解放感がある。北海道には十回も行ったのはやはりここから船で行きやすいからである。旅というとまず一日二日の旅は旅にならない、旅というと一カ月とか少なくても10日とか長い旅でないと旅した気にならないし現実旅にならない、だから旅自体相当な暇と金と労力が必要なのである。だからそれだけ恵まれていないと現代でも本当の旅はできない、旅すること自体仕事のようにしないと旅はできない、現実介護とかになったら一日の余裕もないのだから旅はできない、二日三日でも旅にはならない、時間の余裕がないからできない、二三日は旅にはならないのである。最低でも一週間は必要なのだ。それができないから旅はできなくってしまった。
 
北海道の民話に出てくるコロボックルという妖精は蕗の葉の下に住むと言いますし,雨が降ったときには蕗の葉を取って傘の代わりにするとも言いますから。

蕗は北海道では大きなものになるからこういうことはありえた。蕗の薹から蕗の葉に成長してゆく過程がよくわからない、地下に伸びてゆくというから葉だけが成長してゆくのはわかる。二つの写真も蕗の薹なのだろう。一つは蕗の薹から蕗の葉になってゆく過程のものだろう。印象的には蕗の薹だと思っていたがわからなくなっていた。とにかく旅の写真は貴重である。何回も同じ場所には行けないからである。
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