2008年04月01日

万葉集の歌と過労死


万葉集の歌と過労死

 
●君がための労働から会社のための労働へ
 
あかねさす  昼は田たびて  ぬばたまの  夜の暇(いとま)に     摘める芹子(せり)これ   葛城 王

君がため 手力疲れ 織りたる衣ぞ 春さらば いかなる色に 摺りてば良けむ  

君がため、浮沼(うきぬ)の池の、菱(ひし)むと、我が染めし袖濡れにけるかも

月草に衣そ染むる君がため 斑 ( まだら ) の衣摺らむと思ひて

君がため山田のの沢に恵具採むと 雪消の水に裳の裾ぬれぬ

君がため 春の野に出でて若菜つむ わが衣手に雪は降りつつ(光孝天皇)
 
人間の労働にも文化がある。ハタラクは端(はた)を楽(らく)にするという大和言葉からきている。昔は大家族であり働く姿が常時身近に子供時代から見ている。だから端を楽にしたい、家族の労働を楽にしたいというのがハタラクになった。働くというとき万葉集では「君がため・・・・」でありある特定の人のために働くということが労働のモチベ−ションになっている。
 
君がため 手力疲れ 織りたる衣ぞ 春さらば いかなる色に 摺りてば良けむ
 
君がために努力して織った衣だよ、でも疲れてしまった、今度はどいういう色にすれば気にいってくれのだ・・・これはやはり君がためでも過労があったことは確かである。こういうことは介護にもある。君がための介護に疲れる、どうしたら満足してくれるのだろうかとなる。これは別に君がためでなくても現代にも通じているのだ。どんな商品を作ったら消費者は満足してくれるのか、絶えず開発競争しているからだ。これは古代から商品へのあくなき欲求があった。ただそれが特定の君がために・・・となっていた。現代は不特定の世界の人々のために競争に明け暮れている。地球の裏側の人のために働いている。日本人だけでなくアフリカであれ南米であれコ−ヒ−をバナナを供給するために働いている。日本人がバナナをとる労働したら暑さの中できつかったと報告している。バナナを供給するためにもきつい労働が強いられているのである。それが全く見えないのがグロ−バル化社会なのである。
 
●労働の充足感がない現代
 
あかねさす  昼は田たびて  ぬばたまの  夜の暇(いとま)に     摘める芹子(せり)これ   葛城 王
 
たび’る− 「みぃ」で穀物を風選すること 小豆をたびてくれぇや
 
昼間は小豆をえる仕事をして夜は芹をつむ、これも残業になるがここには労働に対する不満はない、月影の明るい野で君がために芹をつむ美しい光景がイメ−ジされる。古代の労働と現代の労働と根本的に違うのは君がためが会社のためであり国のためであり宗教団体なら組織のためでありすべてが大きな団体組織のための労働なのである。そこに労働の疎外が生まれた。管理職にされ過労死した人も正規の会社員からまたフリ−タ−になることを恐れていた。フリ−タ−は一見自由なようでも保証もない、ただ会社にとって都合のいいように使われる便利なものになっていたのだ。現代は国に使役されるより会社に使役される。会社の権力が強力であり国も会社に従う、トヨタが国以上に力をもっているし経済至上主義は会社利益至上主義になる。会社の存続が第一でありそのあとに国家があり家族があり個人がある。会社が倒産すればすべて終わりだというのが現代の資本主義社会である。だから企業戦士となり会社のために命まで捧げること犠牲を強いられるのである。しかし会社にモラルはない、国よりもモラルはない、利益あげることが第一でありその他は考慮されない、トヨタが中国政府に車を送ったというのもチベット騒動のさなかでも車を売るならチベットなど関係ないとなる。中国という今や巨大な市場から排斥されたら会社も存続しないとなるからそうなる。国にはモラルがあるが会社の利益が優先される社会ではまたモラルより利益なのである。
 
●遊びのない労働は呪われている
 

古代では労働は遊びの要素が大きかった。一日45時間とか働かずあとは祭りとか踊りとか装飾にこるとか遊びが半分であり労働が半分だったのだ。これは江戸時代までつづいていた。遊びは今の言う遊びではない、遊びは神聖な行事であり神と結びついていた。利益をあげる、交換する、商品経済は発達していないから物への執着はなく純粋な遊びとしての時間が多かったのである。ただ西洋では遊びというとき狩猟民族となると
playが賭けを意味していたのは狩猟はギャンブル的要素があったためである。農耕民族の遊びはまた別なものである。遊びとはまた空間を意味していた。遊ぶとは一定の区画された土地に縛られるのではなく荘子の無用の用に遊ぶ空間を意味していたのだ。大都会はすべて実用的空間に埋めつくされているから息苦しくなる。無用の遊ぶ空間がない、そのゆとりもない。わずかに公園がそうなのだがそれも狭すぎるのである。現代文明は利益のための効率の追求であり一分刻みで生産性をあげることを利益を追求することを強いられている。遊ぶことはそこにない、遊びは自発的ではなく遊ぶことは観光とかでも強いられた遊びになる。遊ぶは経済的効率とむすびつかない、効率的能率的に遊ぶということはありえない、人間は遊ぶでも遊ぶことが何か利益をあげるものとして追求するとき堕落したのである。ギリシャでもスク−ルは余暇だから労働から解放されたスコ−レを最高の価値としたのも共通している。遊ぶことは神々の世界に通じることであり神々は遊んでいる。会社に遊びがない、車の生産だけを目的とするところに遊びはない、遊びは別な分野空間で遊ぶことだからである。車だけを唯一の価値としないことが遊びになる。会社にはモラル、遊びもない、車というものにすべての価値をおくから歪みが生まれる。日本自体がトヨタ会社になってしまう危険性があるのだ。その時日本文化もモラルもなく日本の国自体の文化もなくただグロ−バル化の企業戦士として車を売り込むだけの商人職人と化してしまう。車はあくまでも全体の一部であり全体ではありえない、全体にこそ追求すべき価値がありそれが宗教の宗(むね)なるのものだった。


人間が人間たる所以は労働より遊びにあった。だから遊びを神聖化してのである。

 
働かざるもの食うべからず→遊ばざるもの食うべからず
 
人間が度をこして働くとき害が大きくなる。環境破壊にもなり騒音社会になり事故社会になり様々な弊害がでてくる。巨大な摩天楼にしてもそれは労働の成果なのだけど巨大な蟻塚のようにも見えてくる。その下を歩いているのは蟻人間のように見えてしまう。ただ働き蟻となり巨大な無意味な蟻塚を築く、むしろ遊ばざるもの食うべからずであり遊ばないものは人間の資格がないとさえなる。天国での価値観はこの世とは逆転しているかもしれない、ただただ働くものはうとまれ住めないかもしれない、遊ぶものにパンは与えられ遊ばないものには与えられないということになりかねない、文明は過剰労働であり資本主義は欲望の無限の拡大だから必ずパブルや世界不況が罰のようにくる。バナナであれコ−ヒ−であれ売るために過酷な労働が後進国で強いられ先進国では自動車の生産を高めるために過酷な労働が過労死になるまでさせられる。グロ−バル化で欲望は無限に拡大化したから何らかの歯止めをかけないかぎりどうにもならない、それがバブルであり世界不況として必然的に罰として与えられるのが現代の文明なのである。
 
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仕事より遊びの空間は広くあるべき
 
 
 

遊びで堕落した人間
http://www.musubu.sblo.jp/article/676226.html

posted by 老鶯 at 18:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層
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