2006年09月25日

認知症の暴力の原因

認知症ほどわかりにくい病気はない、どこまでが異常なのか正常なのかわからないからだ。正常なのかな、わかってくれるのかなと思って話していると「銀行に金あんのか、年金いつおりるんだ」これを毎日言っている。どうも忘れて毎日聞いているのだ。他にも親戚の人が来るたびに同じことを聞くことがある。これも忘れるからその度に聞いている。認知症は忘れることからすべての問題の発生の原因となる。私の家族でも自分の大事なもの保険証とか通帳とかを忘れて管理できないことからそれを指摘しただけで怒り暴力に一時なった。自分が忘れたのが原因なのだが自分の責任にはせずそれを指摘しただけで怒り他人の責任へ転化する。それが一番身近に接している家族になるし日頃関係が悪い姑と嫁だったら嫁になるのだ。嫁は姑に従うものとしたら嫁に自分が責任があっても指摘されることだけで怒り暴力になる。普通だったら正常だったら自分が忘れたということで反省するのだが認知症になると自分の責任はなく他者を責めることになるのだ。それが暴力にまでなる。

親戚の人は認知症なのかどうかわからないが小さな工場の社長をしていたので何でも命令して亭主関白で威張っていた。大正生まれとかはみな亭主関白であり妻に何でも命令する方である。それが一旦ボケると手のつけられないようになる。自分ができなくなる、落ち度があってもそれを素直に認められない、自分のプライドが許さないのだ。認知症の人はプライドは持っている。だから自分のふがいなさとか自分の落ち度でもそれを認めたくない、それを指摘するだけで怒り暴力ともなる。社長とか家庭でも亭主関白とか威張っていた人は特に認知症になるとプライドを傷つけられるのでそれが暴力につながるのだ。そもそも盗ったということ自体、自分が忘れたことを他者へ責任をなすりつけ暴力になる。「私は忘れていないよ、あんたが盗ったんだ」となると自分の責任がなくなるからだ。もちろん忘れて一瞬精神に不安感を覚え妄想ともなってそうなるのも原因である。病的な妄想、不安感と自分の落ち度を認めたくないから他者へ責任なすりつけることが同時に起こってくるのが認知症である。

認知症は単純なこと銀行から自分の金をおろせないとか計算とかわからなくなるのだが大人として話しが通じることもありこれがややこしくしているのだ。わかっていると思いなんとか説き伏せようとすることにもなるがまた通じなくなっている。暴力の原因が自分のプライドがもていなことにあるとするとプライドをもたせることは認知症にはいいとなる。おだてたり昔の話をさせると気分よくなる。実際に家事をやらせたりすると自信がついてプライドをとりもどし症状が改善される。自分の家ではそうなっている。でもそこには家族の犠牲がでてくる。実際はいろいろできなくなっているからまかせられない、留守番もできない、いろいろ失敗も大目にみるとかその分家族に大きな負担がかかってくるのだ。それでもプライドが回復すると実際にはできないのだが自分は自分でやれるんだと思い込み症状が改善されるのだ。それがそうでないにしても本人は自分一人でやれるんだ、自分は馬鹿になっていないとか自分のことは自分でやれると言うことをきかなくなったりする。ヘルパ−など来なくてもいいとかなるのだ。実際はヘルパ−なしではやっていけないのである。

弱れどもカマキリ歯向かう秋になる

カマキリであれライオンであれ鷲であれ猛獣は自然の生物は最後まで歯向かってくる。人間のプライドも最後まで存在する。プライドだけは消えないのだ。認知症でも低能化してもプライドはありそのプライドが脳の弱体化でそこなわれる。簡単なこと銀行のことなどわからなくてもプライドは強くもっている。特に老人でも一時家長であり社会的な地位もあった人はそのプライドが消えるわけではないのだ。そのプライドが認知症になり著しくそこなわれるから暴力にもなる。「俺は夫だ、家長だ、親だ、社長だ、校長だ、・・・・」こうした社会で暮らしてきたことが認知症になっても継続している。その態度はかえって強くなってしまうから暴力にもなるのだ。「自分を誰だと思っているんだ・・・俺を馬鹿にするのか」となる。人間のプライドは最後まで消えない、そもそも文明は人間のプライドこそ発展させたという人もいる。イスラム圏のアメリカに対する怒りはプライドが傷つけられているからなのだ。それで怒りが治まらないのである。

リア王は嵐の中で叫ぶ
「俺は王だ、王だ、俺を尊べ
 俺は王だ、王だ、・・・・」
その叫びは嵐の中に木霊してなかなか消えない
人間のプライドは最後まで消えない
プライドを踏みにじれば暴力となる
俺はライオンだ、ライオンだ
死の間際までライオンはその威厳を維持しようとする
人間もまた同じなのだ、プライドは消えない・・・


認知症は暴力で悩んでいる人が多いから「認知症 暴力」のキ-ワ-ドでくる人が多いことはわかる。
この記事へのコメント
>自分ができなくなる、落ち度があってもそれを素直に認められない、自分のプライドが許さないのだ。認知症の人はプライドは持っている。だから自分のふがいなさとか自分の落ち度でもそれを認めたくない、それを指摘するだけで怒り暴力ともなる。社長とか家庭でも亭主関白とか威張っていた人は特に認知症になるとプライドを傷つけられるのでそれが暴力につながるのだ。

認知症の人でなくても似ている人は掃いて捨てるほどいるでしょう。こういう人ほど、プライドが先行して素直さが欠けていて、人のせいにするので厄介です。他人なら、ものの言い方に気を付けて改善する事は出来るでしょうが、そこが身内には負担となってしまう点かもしれません。認知症の人も自分が偏見の目で見られている事を認識できているんです。そして、自分の世界は自分にとっては真実なのに非認知症の人には理解してもらえなくて、もがき苦しんでいる訳です。私達、健常者でも、人からの情報が先行してしまって真実や本当の自分を理解していない人には悔しくて腹が立つ経験もあると思うのです。私にも経験があります。ストーカー問題がそうでしたから、認知症の方の気持ちが今迄以上に手に取るように分かるようになりました。内向的な人は(性格によっては)攻撃的にならずに、ドンドン内に閉じこもってしまう方もいらっしゃるでしょう。その人の全てを理解してサポートするという事は並大抵な事ではありません。小林様も、相当な忍耐力と包容力で全うされた事を拝察します。私は、精神科にも勤務していましたので、どんなに変わり果てた姿を見ても偏見なく、むしろ愛情をもって接するようになれました。しかし、私から言わせると精神科は甘えた人が罹患している人もいますので厳しい面ももっています。認知症は、脳の器質的障害で自分の意思で罹患した病ではありません。認知症の人、愛しい…そういう気持ちで接していると、自然に相手も変わってきます。認知症の方に愛情深く接していると、彼らは現時点での自分の知能で一生懸命に伝えよう、応えようと、生きようとして下さいます。

差別視された「らい病」患者の写真やテレビで映像を拝見した事がありますが、彼らも愛しい。肉体が醜く変わろうとも、そに人に宿った魂には変わりませんから。
Posted by 玉本あゆみ at 2010年04月24日 10:07
玉本様が認知症や精神疾患に深いご理解をもっていることは察することができます。
認知症は我が儘病とか言う人もいます。その一面もあります。病気だからしかたないと諦めますが我が儘が突出してそれが抑えようがなくなる。病気だから仕方ないというだけでその我が儘を聞いていることは限度がありました。だからみんな手を焼いて介護者自身が怒ることがある。
暴力になる場合もある。そこで確かに愛情をもって接することが大事だとなるがそれは家族でもできないことですから本当に他人が認知症の介護することは大変だと実感しました。
愛情は認知症の人に通じますがそれが他人がやるとなると並大抵のことではない、家族ですら認知症の人に愛情をもくつづけることが大変なのですから・・・・・
Posted by プログ主(小林) at 2010年04月24日 21:28
>認知症は暴力で悩んでいる人が多いから「認知症 暴力」のキ-ワ-ドでくる人が多いことはわかる。
最後のこの文章にドキッとしました・・・そのとうりだったので。私だけじゃないんだ・・と言う安堵の気持ちもあります。
一か月前に実父(認知症)から突然攻撃を受けたので、憔悴していた所ですが、ブログ主様の文で、慰められた感じです。
他人も身内も、まさか一番身近の娘に・・と半信半疑なのでとても疲れてしまっていました。
ありがとうございます。^^

Posted by たりママ at 2010年04月25日 22:02
最近思う事があります。
認知症の方は、自分は呆けていないんだと周囲に思わせたくて、分かっていないのに分かった振りをします。
認知症でなくても、コミニュケーションが、かなり苦手な人も、認知症の方に似た言動をとる事もあり、1月近く話していた会話の中で、尋ねてもこないし、こちらの質問に適当に答え、答えが次から次へ変わる。実は私に嫌われたくなくていい加減な答え方をしていた、知らなくて合わせようとしていた、適当に相槌をうっていたという事を知らされたのです。
その人は、俺は王だ王だと傲慢さは全くありませんが、どんな人間にもプライドはあるもので、自尊心を傷付けない様に、尚且つ、言うべき事は伝えました。人間は、本当に十人十色です。
Posted by たまもと あゆみ at 2010年07月02日 22:41
>どんな人間にもプライドはあるもので、
>自尊心を傷付けない様に、
>尚且つ、言うべき事は伝えました

認知症で一番不思議だったのはプライドを持続していることでした。生まれてから子供から障害者の人はプライドはないですよね、でも認知症の人は不思議にプライドを維持している。
自分のこれまでしたことを延々と語りつづける。私は長い間こういうことをしてきた、人にも家族にも尽くしてきた、私は馬鹿にされるような人間じゃない、そういう意識を持ちつづけている。
だから金の計算すらできなくなったのに社会のこともわからなくなったのに以前として普通の人として扱われたいのです、でも話はちぐはぐになり通じない、他の人もあの人は馬鹿になったとして離れてゆく、馬鹿にして軽蔑の対象になる。でも身内にすると馬鹿になったとしてもやはりいろいろ尽くしてきてくれた人だから他人のようにはできない、認知症になっても普通のときと同じように接するほかないんです、そうすれば満足して心も落ち着くのです。

認知症になったら今は馬鹿になりだめになったけどその過去の人生が本当の人生でありそれを認めてもらいたいということがあるのでしょう。その差が極端だから驚愕したことを書いてきました。老人は過去に生きる、過去の生きたことに価値を与えてもらいたいということがある。認知症の老人でもそれは維持されていたのです。
Posted by プログ主(小林) at 2010年07月03日 23:16
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