2015年05月15日

失われた「真直」という大和言葉 (純な日本の復古は大和言葉を見直すこと)


失われた「真直」という大和言葉

 
( 純な日本の復古は大和言葉を見直すこと)



子供の為めには自分の凡てを犠牲にして尽すという愛の一面に、自分の子供を真直に、正直に、善良に育てゝ行くという厳しい、鋭い眼がある。この二つの感情から結ばれた母の愛より大きなものはないと思う。しかし世の中には子供に対して責任感の薄い母も多い。
<小川未明「愛に就ての問題」青空文庫>

豊国の企救(きく)の浜辺の真砂土(まなごつち)真直にしあらば何か嘆かむ

今日の万葉集の一首 (美しい自然と真直なる心があれば嘆くことはなかった)
http://musubu2.sblo.jp/article/56762498.html



大正時代まで「真直」ということばは使われていた。明治までは日本の古来の言葉が江戸時代から継続されて使われていた。
何か明治大正すら本当は遠い時代になってしまったのだろうか?
大正4年生まれの母は百歳で生きている。一世紀たったのだから遠いといえば遠い。
大正時代で一番意外だったのは人口が6千万であり大都会すら東京でも百万とか少なかったことである。
今からすると6千万というのは少ない、ということはそれだけ日本の自然が今とはまるで違う、砂浜でも広く残っていた。
鹿島と原町の間にも砂浜があった。それが火力発電所がたって消えた。
それから防潮堤が作られて波に浸食されて日本の砂浜は消失した。
その時まだランプを使っていたのだからその違いはあまりにも大きかったのである。
でも現代に生きるというとき何かまだ大正生まれの人が生きているということで遠いという感じがしなかった。
明治とるなるとすでに遠い過去になる
太平洋戦争も70年が過ぎる。それで戦争のことがしきりに語られる。
それは当時小学生だった人たちである。80代だとまだ戦争を経験していた。
団塊の世代は経験していない、それで今日NHKで見た九州の宮崎県が爆撃されて
小学生の時腕を半分銃撃されて失った女性がいたことには驚いた。
まだそういう人がいたということで生々しかった。
あれだけの傷を負ってまだ戦争のことをひきづっている人がいたことの驚きである。

「真直」とはまなおということはなくなり真っ直ぐとなって残った。
でもまなおとまっすぐは感覚的に相当違っている。
「真直」という言葉はもともと万葉集にあったし日本語の原型は日本の精神の原型は万葉集時代に作られたのである。
つまり日本人には日本人の言葉があり言葉は日本の自然とともに作られたのである。
だからネティブとなる。だから日本語がこうして消失するとき日本人の精神も失われていたのである。
だから日本人の精神を知るには万葉集を知ることになる。ただそれが恋の歌が相聞歌が多いというとき何かうわついたものになり軽薄なものとなり現代的なものとして解釈されやすい。ただその中にもやはり今とは違った日本人のまさに素直なる真直なる心があって歌われている。
日本人の文明に汚されない心に青雲で言えば「純なる日本」である。
この点で同じものを自分も追及していることは確かである。

日本は経済成長を遂げたけど失ったものも多いのである。
日本の純なる美しい自然が相当に失われたことは確かである。
日本の自然は特別美しいものだったことは確かである。
その美しい自然によってはぐくまれたのが日本の心でありそれが万葉集に結晶化して残された。
日本語で言われることはなぜ形容詞が少ないかということである。
これも逆説的だけど日本の自然があまりに美しいからかえって形容詞が発達しなかった。あまりに美しいと何か言葉を発することができない、息をのむとかなりそれで形容詞が発達しなかったのかもしれない、一方で何もない所では着飾る言葉をかえって発達する、形容詞が発達するということがあるかもしれない。

真直という言葉はもともとは直しに「なおし」という大和言葉に由来している。
ただ不思議なのは直しと真直とは何かかなり違ってる
真直という言葉には日本人古来の精神が宿った言葉ではないか?
真直とは不純なものが交わらない、純なるものの追及なのである。
それは日本の自然と融合して「真直」となるのである。
この真直というとき日本の武道と通じている。
日本の武道は型とか姿勢を重んじる。それは勝負にこだわるものとは違う。
礼にはじまり礼に終わるとか

そもそも武道とは、「武」を通して「人道」を学ぶものだからです。

日本の武道は単なる格闘技ではなく人道とかなると精神を重んじるものとなる。
外国は格闘技でありゲームでありそこで勝敗が第一になる。
そこでルールが大事になる。それは文化と歴史の相違である。
外国では絶えざる侵略戦争の歴史であった。だから勝敗にこだわる。
負ければ奴隷にされるのだから勝敗が第一になる。
日本でも格闘技としても勝敗より精神性を重んじる
「武士道」でもそうである。
だから「真直」というときその姿勢が真直だというとき精神も真直だとなる。
型があり心があるとなる。
つまり日本の武道は真直な心を養うことにある。外国ではルールでありルールを敗ることは許されない、公平なルールで勝敗にこだわるのである。
西洋と東洋というときそこに根本的な文化歴史の相違がある。
宗教は東洋アジアから発したというとき深い精神性はアジアにある。
誤解しているのはキリスト教が西欧だと思っているけどそれは西欧化されたキリスト教なのである。
イスラエルはもともとアジアなのである。だから西欧型のキリスト教は西欧化されたキリスト教となってしまう。
日本はあらのそることを欧米化一辺倒になってしまったのが明治維新以来そうだった。
ただ大正時代まで真直という言葉まだ使われていた。

直しとは

 ゆがみや誤りなどを正しくすること。また、こわれたものを、もとどおりにすること。
 
まさに現代日本に必要なのは日本古来の真直な心をとりもどすることなのである。
ただ万葉集時代にも奈良時代にもすでに何か嘆くものがあったということがある。
それが何なのか、自然の消失だとは思えない、やはりいつの時代でも必ず時代によって失われてゆくものがある。そういう嘆きが常にあるからそうなったのか?
現代だったらまさにいろいろなものが科学が発達しても便利になっても何か失われたものも大きい。そういう嘆きは自分も延々と書いてきたし巷にも満ちているのである。
美しい日本の自然が失われたとき日本の心も失われたのである。
心のに青雲で「純なる日本」は東京などから復古できない、像で外界をとらえるろというのは確かである。
その像になるべきものが東京にはないのである。毎日高層ビルをなげめていればそれが心の像となってしまうのである。
崇高な山を毎日眺めていればその像が心に定着するのである。
ここでもその山がないから岩手山とか岩木山とか富士山が見える場所に住んでいる人はうらやましいとなる。
つまりその独立峰という像によって日々心が作られるということがあるからだ。
山には精神性があるが海にはまたないのである。
どうしてもだから浜通りには精神性が欠如するのである。


真直なる富士の姿や今日も映ゆ美しき日本正すべしかな

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