2008年03月21日

橲原(じさばら)のジサはエゴの木の古語


 橲原(じさばら)のジサはエゴの木の古語

 

「山萵苣(やまぢさ)の白露しげみうらぶれし 心に深くわが恋止(や)まず」。
万葉集にでてくるこの「やまぢさ」はエゴノキのことだという。

 木材は緻密で粘り気が強く、各種の木工細工 に適しているため、「ろくろ木」とも呼ばれてい ます。 薪炭にも使用される。
http://www.wood.co.jp/wood/m053.htm

 
南相馬市鹿島区ののジサはエゴの木の相馬地方の方言としてジサノキ−エゴノキと「相馬方言考」新妻三男に書いてあったがこれも万葉集に出ていた古語だった。もともとはやまぢさでありぢさ→じさ(原)になったのだ。方言の基は日本語の古語なのが多いのである。漢字も国字であり特殊である。方言が地名化するとよその人はわかりにくい、どうしてこれがジサと読めるのか、全くわからない、でもここがエゴの木が繁茂する原だったので名づけた。玩具、寄木、薪炭などに使われたからここで山を管理する人が江戸時代から住んで藩の御用を勤めていた。つまりじさという万葉集からある古い言葉がここも残されていた。そくなりと同じ日本語の古語だったのである。橲原 (じさばら)は寺内→小池→橲原となり一番奥になる。寺内だと寺の内とかなり文化的な色彩があり古くから寺があったので寺内となった。小池はやはり湿地帯で小池が多かったからだろう。そして橲原はエゴの木が繁茂するさらなる未開の地だった。だからここは明治以降開拓に入った人が多かった。古い名もない墓所の石くれの墓は明治時代のものであり江戸時代のものがない、この辺では江戸時代のものがあるのは古いしなかなかないのである。小山田は江戸時代から人が住んですでに開拓されていた。隠町(かくれまち)とかあるのは隠田村だったのか年貢を治めない奥地に田を作っていったのかもしれないがこの地名は江戸時代のものである。塩崎(しおのさき)にも隠町という地名があり越中からの真宗の移住者が住んで開拓したところかもしれない、他から入ってきた人は不便な所を開拓する他ないからである。小池には戦後まで入植した人がいる。まだ開拓の余地があった土地なのである。


一軒古い村のように見える所でも新しい場合があるのだ。栃窪の上萱は不便な場所で塩の道筋にあるから古くからあったと思うとこれも歴史は新しい、戦後入植したとか新しいのである。これはもう人は住んでいないから村の歴史は短くして終わった。茅葺きの家があったとき行ったことがある。墓も移動したから何も残っていない。他に飯館の大倉から草野に行く所に共栄橋とかあり二軒ほど家があったがあそこも不便な地域であるが戦後入植したのである。だから二軒あって共栄橋−ともに栄えると名づけた。こういう名づけ方は新しいのである。他にも阿武隈高原にはこういう地名があり入植した人が多いのである。大倉は葉山祭りが残っていたから江戸時代からあったのだ。不便な所でも江戸時代からあった村は古いのである。江戸時代から確かに橲原村があり小池村があり寺内村があった。橲原村に高七石(大塚与右衛門・・・作右衛門、助右衛門)とか給人郷士がいた。橲原には大塚姓が古く栃窪には大谷(おおがい)姓が多く一族を形成していた。郷土史研究の基本は村の新旧を最初に知ることである。意外とこれがわかりにくいのだ。奥地だからいかにも古いと思ってしまうが意外と新しいのが多いのである。最低限江戸時代からつづいている村と明治以降できた村は知らねばならない、江戸時代からあるものは確実に古いからである。八沢浦は明治にに干拓したのだから新しい。郷土史でどこか古いか新しいかわかればある程度のその町や村の歴史がおおざっぱにわかるのである。
 
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posted by 老鶯 at 01:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)
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