2015年05月10日

藤の花の章(白藤の詩)


藤の花の章(白藤の詩)

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白藤の花

白々と幽けく
穏やかに垂れて咲く
触るるもこばむ
風にかそかにゆれ
あるとしもなく
そこにありぬ
猫の性にも似にしや
わずらわしきことに
かかわることをこばむ
夕日のさして
幽かに冷たく月や光りぬ
白々と幽けく
穏やかに垂れて咲く
誰か待ちしや
騒がざるべし
我が家に置きて
都忘れの花をそわせぬ

幽玄の美というと白藤なのか?柳などもなにか似ている。
人間には性格がある。自分は母親と似ている。
自分の母親は今は毎日寝ているけどカーテンをしめきって外を見ることもない、
庭には花が咲いているしそんな暗い所にいるのは普通嫌である。
でもそういうところに一日誰とも話さずいる
話すこともできないのだけど普通のとき前からそうだったのである。百歳になったからというのではなく前からそういう性格だったのである。
人づきあいが苦手な性格である。
自分も何か人と会ったり話するだけでひどく疲れるのである。
一日一人切りでいた方が心が落ち着くのである。
自分も修道院のような所が向いていた。
ただそこも集団生活だから実際は向いていないとなる

花にはいろいろある。花はずいぶん見てきた。たまたま白藤の鉢を家に飾り都忘れの花を置いたらふさわしいと思った。
生け花でもフラワーアレンジメントでも花を適当に合わせるとできる。
要するにたいがい花と花はそれぞれの個性がありただ一緒に活けただけで調和するのである。
だから意外とフラワーアレンジメントは簡単だとなと思った。
生け花は作法とか型があるがフラワーアレンジメントにはないからである。
桜の次には藤とか菖蒲とか季節とともに移りゆく花がある。
それは日本の文化となった花であり野生の花とも違っている。
藤の花は別に山にいくらでも咲いている。
でも文化としてその花は山に咲くのとは違う
すでに藤原京とかにもないるし藤壺とか源氏物語にもでている。
藤にはすでに万葉集時代から人間化した文化となった花である。

藤というのも不思議な花だと思う。
「藤と猫」があっていると思って検索したらその絵がでてきたのでインターネットはそうして関連あるものを引き出すのに向いている。
猫は何か藤とあっている。猫も何か神秘的なのである。
犬とはまるっきり違った性格である。
自分は明らかに猫の性格である。何か人嫌いなのである。
石の詩を百編書いたというのもそうである。
石とか猫とか藤の花は何かにかよっているのだ。
日本的な花はやはり桜とか藤とか菖蒲とか萩とか桔梗とかある。
それらは日本の歴史と風土として文化となったものである。
最近桜だけではない外国人の観光客が藤に注目していることでもわかる
日本のような藤の花は確かにあっても外国のとは違う。
菖蒲でもジャーマンアイリスとかあるがまるで違っているのだ。

京都の迎賓館に藤の間とかあるのもいい、花を部屋の名前にしているのも外国ではないかせしれない。藤の間というだけで何か落ち着くだろう。
そこで茶を飲むというのもいい、それが日本の文化である。

藤の間に茶の味しみぬ京都かな

ただ別に京都だからといってすべていいとはならない、京都はやはり大都会なのである。だから情緒もかなり失われている。外国人でも観光客がふえると何か静かな古都という感じもなくなるのである。
そういう文化的なものは地方都市が向いている。
弘前が喫茶店の街だというとそうだった。あのくらいの規模の都市が今は文化をはぐくむ4,5万では文化は育たないだろう。10万以上ないと今は文化都市にはなれない。
啄木とか賢治が育ったのは盛岡があったからである。
この辺だと仙台になるのだがあそこは自然景観としてはぱっとしないのである。
どうしても独立峰がある岩手山がある盛岡とか岩木山がある弘前が文化都市にふさわしい


 
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