青森県の地名の謎
(ツガルとはツノガノアラシトか?)
新幹線で行くと地名でも極限られたものしか頭に残らない、二戸(にのへ)というのが何か心に残った。八戸の前に二戸があった。
一戸二戸三戸・・・・・九戸がある。
これは必ずしも青森の最先端へ行く順序ではない、ただ何か順番がありそれに意味がある古代からのものなのか蝦夷征服の柵を意味しているのか不明である。
ただヘとつくのは日本語である。へは辺でありヘリとかへるのへなのである。
へっぴりごしとか言うのもそうである。屁(へ)もそうである。あまり感じのいい言葉ではない
へっぴりごしとか言うのもそうである。屁(へ)もそうである。あまり感じのいい言葉ではない
「山川を中にへなりて遠くとも心を近く思ほせ我妹(わぎも)」〈万・三七六四〉
へなるはへだたるである。
辺野古や野辺路もへがついている。場所でも辺野古は山原のジャングルをぬけた所にある町であり沖縄でも縁(へり)の場所である。その先は山原でありジャングルである。
野辺路も何か冬に行って沖に一艘の貨物船を見た。江戸時代は港として栄えていたか今は雪に埋もれてさびれていた。
野辺路も何か冬に行って沖に一艘の貨物船を見た。江戸時代は港として栄えていたか今は雪に埋もれてさびれていた。
青森は蝦夷との関係で地名もアイヌ語由来が多いとか言われる。ナイとかベツは川の意味でありそういう地名が多いというがそれも明確ではない、地名からそうした歴史を解きあかすことは危険なのである。地名はとにかく自分でもそうだが勝手に解釈しやすいからである。
むしろ大和言葉の古語が青森県と沖縄に化石のように残っていることの不思議である。
古いものがかえって辺境に保存されるということがある。
むしろ大和言葉の古語が青森県と沖縄に化石のように残っていることの不思議である。
古いものがかえって辺境に保存されるということがある。
青森は海から森が望まれたから名づけられたというとき海からの視点で名付けられていた。
それは航海の民が名付けたとなる。青森というのはわからないにしても海からの視点で港として全体がある。
青森県の地理的特異性は周りを日本海であり津軽海峡であり下北は太平洋に接しいてる。
県全体が海に接しているからめずらしい県だと思った。
東北では青森だけが日本海と太平洋に接しているから特別なのである。
そこで日本海貿易があり北海道の繫ぎの場所であり太平洋にも接しいるから貿易で栄えるという地理的特性が古代からも縄文時代からもあった所なのである。
津軽鉄道の深野田という駅の名もフコウダと言っていたから南相馬市の原町区の深野もフコウノであり同じ地名の名付け方なのである。大阪にその元がありそこから地名が伝播した。それが青森の津軽に伝播しているのもなんらか共通の文化をもった人たちが移動したからそうした名付け方をしている。
蝦夷の種類を説いて云はく、類に三種あり近きを熟蝦夷ニギエゾ、次を麁蝦夷アラエゾ、遠きを都加留ツガルと
ツガルとは何なのか?これはツノガノアラシトがなまったものではないか?ツガルはツノガである。これを言うのは津波で神社のことが話題になったけど津波に関する神社はほとんどない、津神社となっていたのはツノ神社でありその元をたどればツノガノアラシトなのである。渡来人の製鉄の神なのである。
蝦夷とは何かとなると未だに不明である。それはただ大和王権に逆らって者達のことでありそれ以上のことがわからないのである。
一般的に言われるのは物部氏が仏教移入派に敗れて東北の方に逃れてきて渡来人と一体となり抵抗したという説である。物部氏と渡来人と蝦夷が一体化したのが大和王権に逆らったのである。
その中にツノガノアラシトの一団がいた。逃れてきたかや国の一団もいた。
それは日本の国造りの初期に産鉄族として技術者集団として日本の国造りにかかわった。
そこにはすでに渡来人が日本に根づいて生活して日本人化して日本原住民の蝦夷と一体化していた。そのツノガノアラシトの一団がこの最果てのツガルのに逃れてきて住んだのである。真野の草原(かやはら)の万葉の歌も真野の伽耶(かや)であり伽耶国の人が住んだからそうなった。
それが後に隠されて不明になったのである。
秋田にしろ物部一族の痕跡の強い場所であり物部と渡来人が古代には一体化していたのである。
蝦夷とは何かとなると未だに不明である。それはただ大和王権に逆らって者達のことでありそれ以上のことがわからないのである。
一般的に言われるのは物部氏が仏教移入派に敗れて東北の方に逃れてきて渡来人と一体となり抵抗したという説である。物部氏と渡来人と蝦夷が一体化したのが大和王権に逆らったのである。
その中にツノガノアラシトの一団がいた。逃れてきたかや国の一団もいた。
それは日本の国造りの初期に産鉄族として技術者集団として日本の国造りにかかわった。
そこにはすでに渡来人が日本に根づいて生活して日本人化して日本原住民の蝦夷と一体化していた。そのツノガノアラシトの一団がこの最果てのツガルのに逃れてきて住んだのである。真野の草原(かやはら)の万葉の歌も真野の伽耶(かや)であり伽耶国の人が住んだからそうなった。
それが後に隠されて不明になったのである。
秋田にしろ物部一族の痕跡の強い場所であり物部と渡来人が古代には一体化していたのである。
敦賀郡津守郷
外からの渡来人や文化に関しては、ツヌガアラシト(都怒我阿羅斯等、またの名は于斯岐阿利叱智干岐)の渡来説話がある。かれは、意富加羅国の王子で、初め穴門(長門国西南部)に至り、そこから北つ海から廻って出雲国を経て、角鹿(敦賀)に着いたという
ここの津軽はツガルは日本海回りでツノガノアラシトの一団が来ていたのである。
敦賀からはここは近いからこれは間違いないだろう。
ツガルというとき何か違和感を覚える、一体何を意味しているのだろとうなる。
ツガルはツノガノアラシトのツノガがツルガになったである
実際に敦賀(ツルガ)がツノガに由来しているのだから有力な証拠になるのである。
敦賀からはここは近いからこれは間違いないだろう。
ツガルというとき何か違和感を覚える、一体何を意味しているのだろとうなる。
ツガルはツノガノアラシトのツノガがツルガになったである
実際に敦賀(ツルガ)がツノガに由来しているのだから有力な証拠になるのである。
十三湖は日本海や対岸のツングース族とか住んでいて北の広範囲な貿易拠点だった。
越(こし)も古志神社とかありコシとつくのは中国から移動してきた国の名とかあり
日本海側は渤海でもそうだが入りやすい場所である。
今でも北朝鮮から船で脱出して流れ着いたりしているからである。
それだけ近い距離にあるためである。
最初は日本海から安倍氏などが船で来ていたのだから今は辺境でもツガルの方が古代では開けていたということもある。
そこは蝦夷はまだ大和王権にとっては物部氏などがいたとしたらまだ通じるものがあったツガルは大和王権も通じない北方系の渡来人達が住んでいたのだろう。
越(こし)も古志神社とかありコシとつくのは中国から移動してきた国の名とかあり
日本海側は渤海でもそうだが入りやすい場所である。
今でも北朝鮮から船で脱出して流れ着いたりしているからである。
それだけ近い距離にあるためである。
最初は日本海から安倍氏などが船で来ていたのだから今は辺境でもツガルの方が古代では開けていたということもある。
そこは蝦夷はまだ大和王権にとっては物部氏などがいたとしたらまだ通じるものがあったツガルは大和王権も通じない北方系の渡来人達が住んでいたのだろう。
蝦夷といってもツガルが別個にありそれは蝦夷であっても独立国のようになっていた。
それは早くから貿易が行われていたからだろう。
それは早くから貿易が行われていたからだろう。
三内丸山遺跡からは「交易品」の、ヒスイ製の玉類、黒曜石製の矢じり、コハク原石、アスファルトが付着した矢じり、イモガイをまねた土製品などが発見されています。これらの貴石や貴重品はそれぞれの地域の特産品であり、はるばる日本海を丸木舟でわたってこの地に運ばれてきたものです。
http://www14.plala.or.jp/bunarinn/plala/daieryAA/daiery/encarta/harukanarutabi/sannai/sannai.html
http://www14.plala.or.jp/bunarinn/plala/daieryAA/daiery/encarta/harukanarutabi/sannai/sannai.html
渤海の使節を乗せた船は、ロシアの沿海地方を出発し、冬の季節風にのって日本海を一気に横断、今の秋田県から山口県にいたる日本海側の各地の岸に着きました
太平洋は荒い海だけど日本海は早くから交易の海だった。北前船も日本海回りであった。歴史はとにかく地理の理解が不可欠なのである。
それが青森についてもわかりにくい、福島県も広いからわかりにくいのである。
地理は何回も直接にその地を踏まないとわからないのである。
弘前は一回行ったにしろその他は津軽は行っていないから津軽平野は広いと思った。
そこには日本海から十三湖に西風が吹いていた。だから太平洋から吹く東風とは反対の風だったのである。あの風が吹きつけたので津軽の荒寥さを地の果てなる地を感じたのである。
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