2008年03月19日

相馬方言の「そくなり」の意味 (方言は情の言葉−方言の消失はは文化の消失)


相馬方言の「そくなり」の意味

(方言は情の言葉−方言の消失はは文化の消失)
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方言はどこでも廃れてゆく、80代だったらまだ方言を使っている。病院では認知症同士が隣り合わせで話している。方言で話すことが多いから話が通じ合うのだろう。辻褄が合わなくても認知症同士でも話はできる。看護婦は孫の世代であり若いから方言がわからなくなっている。「そくなりだ」と言ったときわからなくなった。うまく看護婦がしてくれなかったので「そくなり」と言った。天草方言で やりそくなう やりそこなう 失敗する ・・・とあったからもともとそくなうの古語でありそれが損なう(そこなう)になった。相馬方言ではそくなったとなる。つまりそくなりという古語が全国的に変化して方言化したのだ。だから天草という東北からすれば果てのような地域にも同じ方言が生まれた。沖縄でも青森でも方言の基は古い日本語なのである。平安時代の古語が残っていて方言化しているのだ。かえってこうした辺境に古い言葉が化石のように残されている。日本語の伝播はもともと京都とか関西で話されていたものだろう。ところが京都から関西、和歌山県、三重県とかはアクセントがにていても微妙に違って方言化しているのだ。東京は標準語だからつまらないしどこの出身かわからない、関西だとすぐわかってしまう。関西弁と東北弁はあまりにも違いすぎる。アクセントそのものが違う。東北弁は訥弁でありアクセント自体が重いし関西の人のように流暢にぺらぺらしゃべれないのだ。ここにすでに文化の差というか人間そのものが言葉によってすぐにわかる。東北人はすでに顔見ただけでわかる人もいる。暗い感じするからかもしれない、文化の破壊について書いてきたけど方言の破壊もこれも文化の破壊である。これは日常的に最も身近なものだから影響が多い。でも言葉でもアイヌ語ならべつだけど東北弁でも日本語の古語は変化したものが方言なのだからそのもとは同じだったとなる。蝦夷語があったとかいうが
そもそも平安時代から話されている言葉が全国に伝播したのでありそれが方言化しているのだ。方言の起源は地元にあるのではなく伝播されたものだった。ただアクセントの違いが独特な情の言葉にしたのである。
 

方言は情の言葉である。例えば家族が認知症になってもいつも行っていた隣の家の人は学もない話も良く通じないような人に見えたがこの人は「がんばぺっな」(がんばろう)と励ましてくれていたから情ある女性だった。わけのわからないことを言っても嫌がらず話を合わせていたのだ。病気と知っていて受けいれてくれていた。これはなかなかできないことである。ここでも方言で「がんぱぺっな」というとき情がこににじみでていたのである。認知症の人と普通の人とつきあうことは非常にむずかしい、今は同じ病室の認知症の老人とはうまく話している。なぜかというと訳のわからないことを言っても答えてくれし訳がわからなくても通じ合うという不思議がある。その話はほとんど方言である。訳がわからなくても通じ合うということは互いにそこで励まし合っているのかもしれない、何らか情が通じ合っているのかもしれない、言葉の前に人間は情があり言葉に情が乗りうつってはじめて伝わるものがある。言葉でも愛情をもって呼びかける言葉とただ単に記号のように呼ぶような言葉は違う。何号室の何番さんとか呼ばれたらそれは記号として呼ばれているのだ。現実に現代社会は人間は数字的単位であり数値化していることが多いのだ。いろいろな文書は数字とたいして変わらない、理知的な言葉である。ただ話し言葉になると情を交わすことが多くなるから方言が向いているのだ。
 
地方の医療現場では今、標準語を話す若い医師や看護師が増え、方言を使う高齢者が、身体の痛みや心の悩みを伝えにくくなっているという問題を抱えている。こうした中、医療や看護の場面で多く使われる方言をデータベース化し、世代間や地域間の“言葉の壁”を取り払い、お年寄りが住みやすい地域作りを進めようというユニークな取り組みが行われている。
http://sankei.jp.msn.com/life/body/080308/bdy0803081932002-n2.htm
 
医者にも方言を覚える必要があるのだ。むずかしいにしても方言だと情が通じやすいからだ。方言は文化であり医学は共通の科学なのだが方言は情を通じ合わせるのに不可欠なのである。特に年寄りを相手にするときはどうしてしも方言が必要なのである。方言が消えることは文化が消えることであり情も消えて行く、希薄化してゆくという深刻な問題があるのだ。言葉は数字ではない、情を通じ合わすものとして言葉があることを忘れてはならないのだ。


郷土史研究といういろいろある、意外と老人ホ−ムとかで老人の話を聞くと意外な発見があるかもしれない、老人は生き字引ということもあり方言を調べるにも本ではなく本当にしゃべっている、生きている言葉を聞くことができる。それは若い人に伝えねばならぬものかもしれない、日本全国がみんな一様な言葉の標準語になったらつまらない、というより文化の破壊なのだ。英語が世界語になると同じである。老人は無用の存在で地域でも役に立たないとか邪魔だとかなりやすいが老人は何かしら文化を伝える役目をになっているのだ。

認知症の人でも全然通じないわけではない、かえって饒舌になる人がありいろいろ遠慮なく話すから聞き取ることが楽な面もある。意外な秘密までしゃべってしまったというのもそのためである。老人は郷土史研究には必要不可欠の存在である。老人の一生そのものが生きた郷土史だったからである。
posted by 老鶯 at 00:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)
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