2006年09月12日

もののあわれについて(人間は老齢化してみんな敗者になる)

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●もののあわれは万物への慈悲、愛である

もののあわれというとき、このものはもののけとかものは何か霊的な力をもったものとしてのものがある。ものがつくなどもそうである。日本人はものと人とを区別していなかった。ものも人も同じものとしてしとらえていた。欧米では人は特別な者である。神に特別作られたものが人である。人だけに神の似姿として神が神自身をイメ−ジして作られたのが人なのである。だから人だけは他の創造物とは根本的に違っている。ところが東洋的には仏教ではすべてに仏性があるというとき、草木にも仏性があるとなりこれもものと人との区別がないのだ。東洋にはもともとそういう思想があったから日本だけの思想ではない。西洋では科学が発達したのは外界を自然を人間とは明確に区別して分析する物は物として無機物的な対象として追求してものの本質は原子にあるとなった。自然のものを物とみるから無情に接して物の原理を探求できる。動物も人間とは違うものとして見るから実験も可能だとなる。東洋的には生けとし生けるものを慈しむ、仏性があるとかなるとするとそうした生きものを切り刻むような実験をすることには抵抗があるのだ。

●強い人にはもののあわれを覚えない

もののあわれとはライオンとか鷲とか強いものには感じない、でもライオンが弱り死ぬようなときにあわれを感じる。あわれとは強さではない、弱さなのである。どんな強い人でも弱くなることがある。それが老齢化で必ず起きてくる。つまり強く優秀な人でも今や認知症になると料理も整理もできない、金のこともわからない、弱者に転落してしまったのだ。前は強い人だからあわれは感じなかった。今になると軽蔑するわけではなくつくづくこんなにあわれに人間はなるんだなと実感したのである。人間はどんなに強くてもこのようにあわれなる存在となる。これが人間の真実の姿でありあわれまれる存在になってもそのときこそ人間の情が通じることもある。強い人には弱い人の心がわからないのだ。

もののあわれを恋愛だったらかえって失恋した人がもののあわれを感じるようになるし事業に成功した人より失敗した人が感じるし、裕福な人より貧乏な人がより地位ある人より地位のない人がもののあわれを感じやすくなるのだ。世間で勝利したような人は変えてもののあわれを感じない人になる。成功した人ももののあわれを感じない、自分の強さとか才能を誇るようになる、自分が成功したのは自分の能力の結果だと思ってしまうのである。戦争でも勝った組はものきあわれを感じない、負けた組がもののあわれを感じる。また負けた方にもののあわれを感じる、判官びいきは義経に同情したのはそのためである。強者にはあわれみを感じないのである。そこにあわれという日本人独特の心のもち方の奥深さがある。あわれに重点を置くことは西洋的弱肉強食の世界ではない、物も人も万物をあわれむという深い日本的心性、宗教観があったのだ。だから敵味方塚など負けた敵を供養するということがあったのだ。天皇は絶対的勝利のシンボルだったが戦争で負けたので天皇もあわれむべき存在となったのである。靖国神社は勝利のシンボルではない、負けたのだからあわれむべきものとなったのである。

●人間はすべて最後は敗者だ



ともかく強いものにあわれは感じない、イラクのフセイン大統領でも生前はあわれは全く感じなかったが一旦アメリカ地にとらえられるとあわれだとなった。アメリカは常に強いし勝っているからアメリカにふみにじられる人の気持ちがわからないのだ。だからアメリカも弱い立場になったとき弱い立場の国を理解するのである。強さではなく弱さに人間的なものが現れるのだ。強い人は短歌とか俳句に向かないというのはそのためだろう。しかし弱いということを特権のようにしてしまうことも問題である。現代では弱いということが強いことになってしまっているからだ。弱い者が徒党を組み宗教団体であれ組合に入れば弱い人間でなくなるのだ。

あわれむというとき個々をあわれむのであって集団をあわれむということはありえないのだ。集団に対処するとき人はそこに強さとか恐怖とかしか感じない、集団がまた個々をあわれむということもないのだ。集団に強さを加えるために個々をとりこむということがあってもあわれみのためではないのである。集団はなんであれ強さを追求しているのだ。ただ強さは最後に老化して誰もが崩れてしまうことは確かである。その時でもその強い人間は弱さを知り本当に人間を知り人間らしくなるということがある。ただ認知症になるとその自覚も失われてしまうかもしれない、認知症になると自らの弱さが病気により極端化するからその弱さを隠す否定するために暴力が起きるのだ。余りにも弱さへの転落が極端すぎるからそうなってしまうのである。

いづれにしろもののあわれは強いときは感じない、病気になったり老齢化で体も精神も弱るとその人自体あわれみの対象となる。あわれまれるのがいやでも現実体がいうことをきかないしどうにもならないのだ。つまり人間はどんなに優秀な強い人でも結局すべて老齢化で敗者になるべく運命づけられているのだ。強者でありうるのは一時的であり最後は金持ちでも優秀な人でも敗者のあわれまれる運命が待っているのだ。事実優秀な人も認知症に多数なっていることでわかる。

「すべての人の心といふものは、実情はいかなる人にても愚かに未練なるものなり」

(紫文要領・本居宣長)


人の心が愚かであり未練がましいとかいうのは聖書にも通じている。人間は愚かなものであるからこそ神に頼らざるを得ないのである。万能なるは神であり人間は神の助けなくしては愚かにならざるをえない、自分が愚かであり無能であると思うことこそ人間として正常な感覚なのである。

自分の目に自らを知恵ある者とする人をあなたは見るか
彼よりもかえって愚かな人に望みがある。箴言(しんげん)26−12


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この文章のつづきはここに書きました

老いも病気も弱さも人間に必要なものとして与えられた(介護−俳句−詩)
http://musubu.sblo.jp/article/1634568.html

生はなべてあわれなるものと知るべし
http://www.musubu.sblo.jp/article/1726653.html

福祉介護は現代社会のアンチテ−ゼ(福祉の問題点)-時事36へ
http://musubu.jp/jijimondai36.html#welfere1

あわれむというとき福祉の問題ではかえってあわれまれる方に福祉を受ける側に問題があった。

団体化組織化して弱さを権利として主張する時、弱いものはただ恐怖の対象となり個々にあわれむという福祉の精神はなくなった。福祉は弱いものが集団化して組織で恫喝するとか弱いものが純粋にあわれまれる対象でなくなった不幸もあるのだ。
 
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