2006年09月12日

野菊(弱者への転落−あわれとは?)

nogikuutaji.jpg

庭に石菊の香ほのか雨しとと

the faint scent of a chrysanthemum
the stone in my garden
in the gentle rains


我が墓に野菊の挿すや姉の待つ

我が通う裏道あわれ雨ぬれし野菊の花を手折り帰りぬ


菊の香や奈良には古き仏たち」芭蕉というとき菊の香りというものがあった。私は鼻が悪いから香りがわからない時がある。菊が庭に少しだけ咲き初めたがそれでも菊の香りはしていたのだ。やはりこの香りに敏感になる必要がある。日本には香りの文化がない、ヨ−ロッパでは薔薇が代表的な花でありこれには香りがあるから香りの文化が生まれたのである。

毎日通うこの裏道に自分の家の墓がありこれに野菊をさした。墓参りとか祖先には祈ったことがなかった。毎日自分の墓の前を通るので野菊をさしたのである。人間はいくら強い人でもなんでもできた優秀な人でも老人になると無力化される。認知症になるとボケるとさらに無能力化される。それが強い人でありなんでもできる人だったから最初は違和感を感じたが今ではあわれを感じる。日本語のあわれには独特の日本の文化から生まれた言葉なのである。

もののあわれとはライオンとか鷲とか強いものには感じない、でもライオンが弱り死ぬようなときにあわれを感じる。あわれとは強さではない、弱さなのである。どんな強い人でも弱くなることがある。それが老齢化で必ず起きてくる。つまり私の家族のK子も強く優秀な人だったが今や認知症になり料理も整理もできない、金のこともわからない、弱者に転落してしまったのだ。前は強い人だからあわれは感じなかった。今になると軽蔑するわけではなくつくづくこんなにあわれに人間はなるんだなと実感したのである。

人間はどんなに強くてもこのようにあわれなる存在となる。これが人間の真実の姿でありあわれまれる存在になってもそのときこそ人間の情が通じることもある。強い人には弱い人の心がわからないのだ。アメリカでも常に強いし勝っているからアメリカにふみにじられる人の気持ちがわからないのだ。だからアメリカも弱い立場になったとき弱い立場の国を理解するのである。強さではなく弱さに人間的なものが現れるのだ。強い人は短歌とか俳句に向かないというのはそのためだろう。

しかし弱いということを特権のようにしてしまうことも問題である。現代では弱いということが強いことになってしまっているからだ。弱い者が徒党を組み宗教団体であれ組合に入れば弱い人間でなくなるのだ。ただ強さは最後に老化して誰もが崩れてしまうことは確かである。その時でもその強い人間は弱さを知り本当に人間を知り人間らしくなるということがある。ただ認知症になるとその自覚も失われてしまうかもしれない、認知症になると自らの弱さが病気により極端化するからその弱さを隠す否定するために暴力が起きるのだ。余りにも弱さへの転落が極端すぎるからそうなってしまうのである。

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