2008年03月15日

春北風(歳月の重み)


春北風(ハルキタ)や手押し車に墓掃除
 
春北風(はるならい−ハルキタ)は単純に春に吹く北風である。今日は温かいから北風が吹いても気にならなかった。寒く感じないのだ。それで墓掃除には向いていた。老人の勤めは墓掃除とか墓参りになっている。死ぬ日が近いから墓が親しくなるのだろうか?墓も老人の拠り所なのである。人間何か日々のつまらぬことでも一日を生きる、掃除ばかりにこだわる掃除狂でも彼岸になれば墓掃除することそれは亡き人の思いとして意味あるものとなる。最近家族にいろいろあってその感を深くしたのである。


60年その歳月の重みかな軽くは消えじ春北風唸る
 
家にいなくなってから二カ月だけどやはり家に60年もいた人はそう簡単には消えない、消そうとしても消えない、家の重みは善し悪しはあるが長いことなのだ。実際は80年以上ある。そういうふうに長く一緒に生活をともにした人はいろいろあってもなかなかその家から消えない、これが本当に不思議だった。いつもいた場所にいなくても以前としているように思えるのだ。それが手をふれあうように具体的にいるように思えるのだ。やはりそれはともにした時間の長さなのである。夫婦でもやはり30年以上とかともにしていればわからないにしてもいろいろ個別の事情があってもその長さにより一体不二のようになってしまっているのである。同じ病室の認知症の人は「とうちゃん」とか呼んでいるけど20年前に死んだ人なのである。それでも呼んでいるのはやはり一緒にいた長い時間がありそれで忘れられない、これは明らかに時間の作用なのである。長い時間に形成されるものは容易に消えない、存在感をもちつづける。だから家に帰りたいというのがわかる。病院や施設はそうした人間の時間としての存在感をもてない所だからである。
 
人間も晩年になり老人となりいろいろなことがわかってくる。水のように空気のように存在したもののありがたさもわかってくるのである。それは悲しい別離であってもその別離はまた意味あるものとなる人間の不思議があるのだ。別離によって思いが深くなるという不思議がまた人間にあるだ。もし別離がなかったらその人の存在の重さもわからずじまいになってしまう。ともかく時間は大きな働きを人間に成すのである。長い時間によって自ずから解ける問題が実に多いからである。だから人間は解決をあせるより待っていると自ずと難題も解けるということがあるのだ。それは時間によってそうなるのである。時間の経過によって無常が現れるからだ。この世のことはどんなことでも一定していない、変わるのが世の中である。家族関係もがらりと変わることがある。特に老年期に変わりやすいのである。死別とか世代の交代とか施設に入るとか変わりやすいのだ。それで老年期は一番無常を感じる年になっているのだ。

 

儀礼というのはそもそもそういうものなわけ。
ある種の状態を導くためのプロセスを保存し、繰り返すことで、
いつでもなにがしかの感情レベルを再現できる可能性を保持する、
というのが儀礼の意味でしょ。そのためには反復が必要だし、
完全なものでないとはいえ、なにがしかの型が失われては意味がないんだよ。

宗教的儀礼の反復こそが、集団の感情の基盤を支えている。
それは、<反復された時間の重み>というほかには代えがたいものによって


神道の問題はさておき長くつづくものには意味がある。千年もつづいているものは何か意味を伝えるために残っている。その意味が断たれることは思わぬ影響がある。天皇家はもっとも古い家系でありつづいているから意味があるのだ。日本国にとって欠かせない何かがあるから存続しているのだ。それは理屈ではなく長い時間のなかで価値をもってきたものなのである。そういう存在はなかなか消せない、重しのように存在しつづけて家を国を支えることがあるからだ。
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