葬式は立派だったという、でも隣近所でもあまり良く言う人はいなかった。潔癖症で家の中がきれいすぎて入ることもできなかったとか言っている。結局骨になってしまったのだがそのお骨は長年住んだ家にあり墓も近くにあるので47日後に墓に納められるらしい、娘はそのお骨を自分の住んでる家にもっていかずその一人住んだ空家に置いておくそうだ。すると今その長年一人で住んだ実家にはお骨しかない、誰もそこにはいないのだ。これもちょっと不気味かもしれない、お骨が留守番しているというのもなんか侘しいではないか?これもまたその人の運命だったのか、骨になってもなお一人自分の家にいる。しかし見守る人はいない、葬式は形としては立派でも冷たいものとなることもありうる。金持ちや地位ある人であれば葬式は豪華にはなるがでもそれが愛情のこめられた葬式となるとは限らない、形式だけでその内実はわからない、そのあとは財産相続だけが目的で親族が争うともなる。
人間は死んだからその人がカミになるとか特別なものになるわけではないのだ。死んだらカミになるから靖国で会おうというのも納得できないのである。生前と死後は完全に断絶するわけではない、生前と死後はつづいているのだ。生前の人生が良いものでないものが死後も良いものとはならない、その人の生前の人生がお骨をそういう状態にさせたのではないか?これは便宜上そうなったのかもしれないが空家に一人お骨だけあるというのは淋しい感じがするからだ。いづれにしろ人間の最後もその人生の延長としてあり死後も生前の人生と断絶するとは思えないのだ。死んだら終わりだ、何もなくなるというが以前としてその人が思っていることこだわったことなどが活きている。
娘には世話にならないとか娘を拒絶して一人生きてきた母親は最後も実家で一人骨になってもいる。死んでも人と人の関係もつづいている。生前仲よかった人は死後も仲がいいのである。だから夫婦でも仲が悪くなると一緒の墓に入りたくないとか実際に請求して実行している人もいるのだ。人間は死んだからといってすべて終わるわけではない、責任もなくなるわけではないのだ。そうだったら死んだら終わりなんだからやりたいことをやればいい、人生なんかどう生きても死んだら結局みんな灰になって同じよとなり誰も人生を真面目に生きようとしなくなるだろう。全く無責任な人生だけになってしまう。骨を灰にして海にまいても生前の人生は何かしら残り簡単には消えないのが人間なのだ。
また戦争で死んだからといって死んだものをとやかくいうべきではない、死んだら日本ではカミになるとかならないのだ。とやかく言われるのは人間は死んでもそれでその人の人生が消えるわけでもないし終わらないからいいにしろ悪いにしろとやかく議論が絶えないことになっているのだ。
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